知っているようで知らない「国債」と「税」の話
― 結局、何をどうすれば経済は上向くのか ―
経済を「道徳」で考えると、大きく見誤る
私は大学で教鞭をとっているが、学生にマクロ経済学を教えるときには、一見、不道徳に見える
経済政策を理解させなくてはいけないことがある。
そういうときに使うのが、其の2でも説明した「合成の誤謬」という経済学の考え方だ。個人レベ
ルでは正しいことでも、みんながやったら困る、という考え方である。経済を国全体、社会全体でと
らえるマクロ経済学では、この考え方を理解しないと話にならない。
個人の真面目さ、道徳心につけこむのは、財務省のもっとも得意とするところなのだ。実際、現職の
政治家のなかでも、すでに財務省の論法にからめとられていると見える人が、多数いる。
増税ロジックに乗せられないためにも、国債というものを通じ、金融政策、財政政策の知識をもっと
高めておくに越したことはないだろう。つねにミクロではなく、マクロで考えるクセをつければ、ど
ういう政策なら経済が上向くのかも、自分の頭でわかるようになる。
マクロ経済学では、とかく個人レベルの道徳心は邪魔になる。そう断言していいだろう。
そのためか、海外のマクロ経済学者は、たびたび「経済政策は無責任にやるものだ」といった言い方
をする。つまり個人レベルの道徳心など、経済政策に持ち込むなということだ。言葉尻だけとらえれ
ば「無責任では困る」となりそうだが、根っこでは、前に述べた「合成の誤謬」を考慮しているのだ。
個人レベルの道徳で考える人には無責任に見えても、本当はガチンコで真面目に経済政策を考えるの
が、マクロ経済学なのだ。
国債にしても、「借金は悪」という道徳心に従えば、なるべく発行しない方がいいことになる。しかし、
国債の発行を少なくすることは、政府が使えるお金が少なくなるということだ。
経済は、「「需要と供給」で成り立っている。
世の中の需要すべてを「総需要」と呼び、これがより大きくなるほど、物価が上がる。デフレ不況の
中では、これが景気回復の糸口となる。総需要には、「政府需要」も含まれる。モノやサービスを消費
する国民も需要者だが、公共事業などにお金を払う政府もまた、大きな需要者なのだ。
ここまでくれば、もうわかるだろう。
国債の発行を少なくすることは、政府が使えるお金が少なくなるということ、それはつまり政府需要
が圧縮されることを意味し、公共事業が減る。公共事業には、雇用を生み出す効果がある。つまり、
国債の発行を控え政府需要が減ることは、失業率アップにつながるのだ。
では、道徳では悪とされる国債を「無責任」に発行するとどうなるか。今、話したこととちょうど反
対のことが起こる。つまり、財政経由で国民に直接ばらまかれて需要を生む。公共事業が増え失業率
ダウンにつながる。
道徳心から「借金は悪」とし、「国債発行は無責任な政策だ」と主張する人は、この違いをどうみるの
であろうか。
私には、国債発行を減らして政府需要を減らすより、国債を発行して雇用を生み出す方が、よほど責
任ある政策であり、道徳的だと思えるが、どうだろう。
とくに、今のような超低金利の世の中では、日銀の金融政策の効果は、限定的にならざるを得ない。
日銀は、民間金融機関から国債を買い、その利子収入(通貨発行益)が丸々、国庫納付金として政府
に納められる。もし金利が高ければ、それだけ利子収入が増え、国庫納付金が増える。
これが政府需要の押し上げ効果となって、財政経由で国民にばらまかれ、物価上昇につながる。だが、
今のような超低金利では、それもままならない。だから、国が国債を増発し、政府需要を高めるとい
う財政政策と、日銀が民間金融機関から国債を買うという金融政策の「合わせ技」が必要なのだ。
政府はせっせと国債を発行し、日銀はせっせと民間金融機関から国債を買えばいいのである。
公共事業には、いわゆる「ハコモノ行政」をはじめ、無駄使いをしているという批判がつねにある。
ただ、一方で、今も説明したように、雇用創出というメリットがあることも事実だ。
財政政策では、この両方を秤にかけて、より社会貢献度が高い選択肢を取っていくべきなのである。
政府がお金を使うということは、国内にお金をめぐらせること
個人でいえば、飲み食いのために借金するのはよくない。ただ、経済全体でいえば、飲み食いそのも
のは悪いことではない。誰かがお金を使えば、それだけお金が世の中を巡り、経済が動くからだ。ま
さに「合成の誤謬」で、マクロで考えれば倹約が全てではない、となる。
国における倹約は、歳出カットだ。それは政府需要の縮小につながるから、私は常に歳出カットには
慎重な立場である。
倹約するか、借金をするか、どちらがいいかは、その時々の経済の状況による。 一概に歳出カット
がいいわけでもないし、国債を出すのがいいわけでもない。
たとえば、好景気に沸いているときには、少し経済を冷やすために歳出カットをするというのはあり
うる。世の中でお金がだぶつき、インフレが加速しそうなときに歳出カットをすれば、政府需要が下
がり、お金のだぶつきを押さえられる。その結果、インフレの加速を防ぐことができる。これは緊縮
財政の常道だ。
逆に、経済に元気がないときに歳出カットをすれば、経済はますます冷え込んでしまう。ここ数十年
来続いているデフレ不況など、まさにそうだ。歳出カットはしない、しかし予算をすべてまかなえる
だけの税収がない。ここで、ただでさえ不況で大変な国民の負担となる増税など、もってのほかだ。
したがって、とりうる政策は国債発行となる。
国の借金は、広く世の中にお金を回すための借金だ。お金を貸せる期間や人から借りて、公共投資な
どの財政支出で広く国民にばらまく。歳出カットが緊縮財政である一方、国債発行は財政緩和策の常
道なのだ。
このように並べてみれば、どちらがいいかは、その時々の経済状況で異なることもわかるだろう。
一概に「国債はダメ」「借金はけしからん」という人は、要するに政府が借金をした後、そのお金を
どのように使うかにまで考えが及んでいなのだろう。世の中には、「公共事業をすべてなくせ」など
と、極端なことをいう人もいる。
一方、私は国債発行や公共事業に肯定的なせいか、「高橋は政府の無駄使いを許している、甘い」など
といわれることも多い。
しかし私は、別に甘いわけではない。ただ国債を発行した場合の「費用便益」を考えているだけであ
る。つまり、国債を発行し、財政支出をした際に、どれくらいの便益が社会にもたらされるのかを見
ているのである。
支出の効果を考えなくては、支出の良し悪しは判断できない。社会に対する便益に鑑みれば、国債発
行及び財政支出が最良策という場合は、山ほどある。
「ハコモノ行政」といわれようと、財政緩和が必要なとき(つまり世の中にもっとお金が回ったほう
がいいとき)には、迷いなく国債を発行すればいいのである。
― 結局、何をどうすれば経済は上向くのか ―
経済を「道徳」で考えると、大きく見誤る
私は大学で教鞭をとっているが、学生にマクロ経済学を教えるときには、一見、不道徳に見える
経済政策を理解させなくてはいけないことがある。
そういうときに使うのが、其の2でも説明した「合成の誤謬」という経済学の考え方だ。個人レベ
ルでは正しいことでも、みんながやったら困る、という考え方である。経済を国全体、社会全体でと
らえるマクロ経済学では、この考え方を理解しないと話にならない。
個人の真面目さ、道徳心につけこむのは、財務省のもっとも得意とするところなのだ。実際、現職の
政治家のなかでも、すでに財務省の論法にからめとられていると見える人が、多数いる。
増税ロジックに乗せられないためにも、国債というものを通じ、金融政策、財政政策の知識をもっと
高めておくに越したことはないだろう。つねにミクロではなく、マクロで考えるクセをつければ、ど
ういう政策なら経済が上向くのかも、自分の頭でわかるようになる。
マクロ経済学では、とかく個人レベルの道徳心は邪魔になる。そう断言していいだろう。
そのためか、海外のマクロ経済学者は、たびたび「経済政策は無責任にやるものだ」といった言い方
をする。つまり個人レベルの道徳心など、経済政策に持ち込むなということだ。言葉尻だけとらえれ
ば「無責任では困る」となりそうだが、根っこでは、前に述べた「合成の誤謬」を考慮しているのだ。
個人レベルの道徳で考える人には無責任に見えても、本当はガチンコで真面目に経済政策を考えるの
が、マクロ経済学なのだ。
国債にしても、「借金は悪」という道徳心に従えば、なるべく発行しない方がいいことになる。しかし、
国債の発行を少なくすることは、政府が使えるお金が少なくなるということだ。
経済は、「「需要と供給」で成り立っている。
世の中の需要すべてを「総需要」と呼び、これがより大きくなるほど、物価が上がる。デフレ不況の
中では、これが景気回復の糸口となる。総需要には、「政府需要」も含まれる。モノやサービスを消費
する国民も需要者だが、公共事業などにお金を払う政府もまた、大きな需要者なのだ。
ここまでくれば、もうわかるだろう。
国債の発行を少なくすることは、政府が使えるお金が少なくなるということ、それはつまり政府需要
が圧縮されることを意味し、公共事業が減る。公共事業には、雇用を生み出す効果がある。つまり、
国債の発行を控え政府需要が減ることは、失業率アップにつながるのだ。
では、道徳では悪とされる国債を「無責任」に発行するとどうなるか。今、話したこととちょうど反
対のことが起こる。つまり、財政経由で国民に直接ばらまかれて需要を生む。公共事業が増え失業率
ダウンにつながる。
道徳心から「借金は悪」とし、「国債発行は無責任な政策だ」と主張する人は、この違いをどうみるの
であろうか。
私には、国債発行を減らして政府需要を減らすより、国債を発行して雇用を生み出す方が、よほど責
任ある政策であり、道徳的だと思えるが、どうだろう。
とくに、今のような超低金利の世の中では、日銀の金融政策の効果は、限定的にならざるを得ない。
日銀は、民間金融機関から国債を買い、その利子収入(通貨発行益)が丸々、国庫納付金として政府
に納められる。もし金利が高ければ、それだけ利子収入が増え、国庫納付金が増える。
これが政府需要の押し上げ効果となって、財政経由で国民にばらまかれ、物価上昇につながる。だが、
今のような超低金利では、それもままならない。だから、国が国債を増発し、政府需要を高めるとい
う財政政策と、日銀が民間金融機関から国債を買うという金融政策の「合わせ技」が必要なのだ。
政府はせっせと国債を発行し、日銀はせっせと民間金融機関から国債を買えばいいのである。
公共事業には、いわゆる「ハコモノ行政」をはじめ、無駄使いをしているという批判がつねにある。
ただ、一方で、今も説明したように、雇用創出というメリットがあることも事実だ。
財政政策では、この両方を秤にかけて、より社会貢献度が高い選択肢を取っていくべきなのである。
政府がお金を使うということは、国内にお金をめぐらせること
個人でいえば、飲み食いのために借金するのはよくない。ただ、経済全体でいえば、飲み食いそのも
のは悪いことではない。誰かがお金を使えば、それだけお金が世の中を巡り、経済が動くからだ。ま
さに「合成の誤謬」で、マクロで考えれば倹約が全てではない、となる。
国における倹約は、歳出カットだ。それは政府需要の縮小につながるから、私は常に歳出カットには
慎重な立場である。
倹約するか、借金をするか、どちらがいいかは、その時々の経済の状況による。 一概に歳出カット
がいいわけでもないし、国債を出すのがいいわけでもない。
たとえば、好景気に沸いているときには、少し経済を冷やすために歳出カットをするというのはあり
うる。世の中でお金がだぶつき、インフレが加速しそうなときに歳出カットをすれば、政府需要が下
がり、お金のだぶつきを押さえられる。その結果、インフレの加速を防ぐことができる。これは緊縮
財政の常道だ。
逆に、経済に元気がないときに歳出カットをすれば、経済はますます冷え込んでしまう。ここ数十年
来続いているデフレ不況など、まさにそうだ。歳出カットはしない、しかし予算をすべてまかなえる
だけの税収がない。ここで、ただでさえ不況で大変な国民の負担となる増税など、もってのほかだ。
したがって、とりうる政策は国債発行となる。
国の借金は、広く世の中にお金を回すための借金だ。お金を貸せる期間や人から借りて、公共投資な
どの財政支出で広く国民にばらまく。歳出カットが緊縮財政である一方、国債発行は財政緩和策の常
道なのだ。
このように並べてみれば、どちらがいいかは、その時々の経済状況で異なることもわかるだろう。
一概に「国債はダメ」「借金はけしからん」という人は、要するに政府が借金をした後、そのお金を
どのように使うかにまで考えが及んでいなのだろう。世の中には、「公共事業をすべてなくせ」など
と、極端なことをいう人もいる。
一方、私は国債発行や公共事業に肯定的なせいか、「高橋は政府の無駄使いを許している、甘い」など
といわれることも多い。
しかし私は、別に甘いわけではない。ただ国債を発行した場合の「費用便益」を考えているだけであ
る。つまり、国債を発行し、財政支出をした際に、どれくらいの便益が社会にもたらされるのかを見
ているのである。
支出の効果を考えなくては、支出の良し悪しは判断できない。社会に対する便益に鑑みれば、国債発
行及び財政支出が最良策という場合は、山ほどある。
「ハコモノ行政」といわれようと、財政緩和が必要なとき(つまり世の中にもっとお金が回ったほう
がいいとき)には、迷いなく国債を発行すればいいのである。