国債の返済について
「借りたものを返す」―― これはいうまでもなく、世の中の道理だ。
政府も例外ではなく、「借金はきっちり返さなくてはならない」というのは、法律でも
定められている。もし、返さないと政府がいったら、それはデフォルト(債務不履行)宣言
になってしまって、国債は暴落して国民経済は大変なことになる。
かといって、よく聞く「国債発行額が膨れ上がっているのは、将来世代に負担をかけるこ
とだからよくない」というのも見方によっては誤りだ。
国債の本質がわかっていれば、「国債は借金だから全額返す義務があるが、きちんと
バランスシートなどで国の財務状況を見れば、現在の国債発行額には何も問題がない」とい
うことがわかる。
「倹約を良しとする」と「借金は悪」となる
経済学には「合成の誤謬」という言葉がある。簡単にいえば、個人レベルで見れば正しいこ
とでも、同じことをみんながやったら困る、という話だ。
仮に国民全体が倹約しだしたら、どうなるか。
消費が落ち込み、企業の業績が悪化し、給料が下がり、悪くすると失業してしまう。
経済では、何事も表裏一体だ。自分はお金を使う側であると同時に、受け取る側でもある。
自分も含めて、みんながお金を使わなくなれば、当然、自分が受け取る額も小さくなり、
その結果、世の中は不景気となってしまうのだ。
個人レベルでの倹約はある程度必要である。ただ、それと、同じ視点で世の中全体を見る
のは間違っているのだ。
「倹約をよしとする」のは、散財を重ねて借金をするといった事態を防ぐためには、必要
な感覚だろう。
しかし、それが行き過ぎて「倹約は絶対善」とすると、「借金は絶対悪」となってしまう。
こうなるともう、借金の全てを敵視することになり、企業の借金も国の借金も全部ダメ、と
いう短絡思考に陥ってしまうのだ。
たとえば、経営難に陥っている会社があるとする。負債が何億、何百億にも膨れ上がって
いると、そこにばかり目が行き批判しがちだが、本当の問題は、「莫大な借金があること」
そのものではない。「借金を返せるだけの資産がなかったこと」だ。
つまり、借金に見合うだけの資産がある限り、じつはどれほど借金が積み重なってもかま
わないといっても過言ではない。
単純な倹約思考で断じるのは、間違っているのだ。
まったく同様のことが、国債にも言える。
マスコミも財務省も、なぜか「日本政府は国債をこんなに発行している」「また増えた」
と騒いでいるが、これは企業や個人の借金の額だけを見て騒いでいるようなものだ。
だが、当然ながら、国には負債もあれば資産もある。国債発行だけを見て問題視するのは、
経済のプロであれば決してしない、一面的な見方なのである。
結局は、財務官僚や経済記者といえども、経済のプロではないということだ。(財務官僚
は、そのように装っている可能性もあるが)。
「借金をなくせ」で国債がなくなったら、大変なことになる
この点をしっかり理解するには、「金融市場における国債」という国債のもう一つの
顔を理解しなくてはいけない。
国債は政府の借金だが、同時に金融市場にはなくてはならない「商品」でもあ
るのだ。金融市場では、国債以外にも株や社債といった金融商品が取引されてい
るが、基本は「国債と何か」という取引だ。つまり、国債と株、国債と社債を交
換するという取引が基本である。
このように国債は、金融市場において「お金」、あるいはかつての「コメ」のような役割
を果たしている。これが、「政府の借金・国債」のもう一つの顔だ。
とにかく、すぐに他の商品と交換できる、非常に使い勝手のいい金融商品なのである。
国債は金融市場をこんなふうに根っこから支えている。その国債がなくなっては、金融機
関は商売ができない。ひいては、現在、私たちが生きている金融資本主義社会の発展も望め
なくなってしまう。
金融マンなら、「国債は政府の借金だからない方がいい」なんて絶対にいわないはずだ。
国債がなくなれば、金融機関の仕事は大幅に縮小し、失業しかねないからだ。
アメリカのニューヨーク市場、イギリスのロンドン市場など、金融資本主義が発展してい
る他の国の金融市場でも、国債を介した取引が一番多い。
国債の発行額は国によって違うが、国債がなくては金融市場が成り立たないという点で
は変わらない。
このように国債には金融市場の「コメ」、「必須商品」としての重要な役割がある。
「国債は国の借金だからダメ」というのが、いかに無知からくる見方かということが、ここでもよくわかるだろう。
「借りたものを返す」―― これはいうまでもなく、世の中の道理だ。
政府も例外ではなく、「借金はきっちり返さなくてはならない」というのは、法律でも
定められている。もし、返さないと政府がいったら、それはデフォルト(債務不履行)宣言
になってしまって、国債は暴落して国民経済は大変なことになる。
かといって、よく聞く「国債発行額が膨れ上がっているのは、将来世代に負担をかけるこ
とだからよくない」というのも見方によっては誤りだ。
国債の本質がわかっていれば、「国債は借金だから全額返す義務があるが、きちんと
バランスシートなどで国の財務状況を見れば、現在の国債発行額には何も問題がない」とい
うことがわかる。
「倹約を良しとする」と「借金は悪」となる
経済学には「合成の誤謬」という言葉がある。簡単にいえば、個人レベルで見れば正しいこ
とでも、同じことをみんながやったら困る、という話だ。
仮に国民全体が倹約しだしたら、どうなるか。
消費が落ち込み、企業の業績が悪化し、給料が下がり、悪くすると失業してしまう。
経済では、何事も表裏一体だ。自分はお金を使う側であると同時に、受け取る側でもある。
自分も含めて、みんながお金を使わなくなれば、当然、自分が受け取る額も小さくなり、
その結果、世の中は不景気となってしまうのだ。
個人レベルでの倹約はある程度必要である。ただ、それと、同じ視点で世の中全体を見る
のは間違っているのだ。
「倹約をよしとする」のは、散財を重ねて借金をするといった事態を防ぐためには、必要
な感覚だろう。
しかし、それが行き過ぎて「倹約は絶対善」とすると、「借金は絶対悪」となってしまう。
こうなるともう、借金の全てを敵視することになり、企業の借金も国の借金も全部ダメ、と
いう短絡思考に陥ってしまうのだ。
たとえば、経営難に陥っている会社があるとする。負債が何億、何百億にも膨れ上がって
いると、そこにばかり目が行き批判しがちだが、本当の問題は、「莫大な借金があること」
そのものではない。「借金を返せるだけの資産がなかったこと」だ。
つまり、借金に見合うだけの資産がある限り、じつはどれほど借金が積み重なってもかま
わないといっても過言ではない。
単純な倹約思考で断じるのは、間違っているのだ。
まったく同様のことが、国債にも言える。
マスコミも財務省も、なぜか「日本政府は国債をこんなに発行している」「また増えた」
と騒いでいるが、これは企業や個人の借金の額だけを見て騒いでいるようなものだ。
だが、当然ながら、国には負債もあれば資産もある。国債発行だけを見て問題視するのは、
経済のプロであれば決してしない、一面的な見方なのである。
結局は、財務官僚や経済記者といえども、経済のプロではないということだ。(財務官僚
は、そのように装っている可能性もあるが)。
「借金をなくせ」で国債がなくなったら、大変なことになる
この点をしっかり理解するには、「金融市場における国債」という国債のもう一つの
顔を理解しなくてはいけない。
国債は政府の借金だが、同時に金融市場にはなくてはならない「商品」でもあ
るのだ。金融市場では、国債以外にも株や社債といった金融商品が取引されてい
るが、基本は「国債と何か」という取引だ。つまり、国債と株、国債と社債を交
換するという取引が基本である。
このように国債は、金融市場において「お金」、あるいはかつての「コメ」のような役割
を果たしている。これが、「政府の借金・国債」のもう一つの顔だ。
とにかく、すぐに他の商品と交換できる、非常に使い勝手のいい金融商品なのである。
国債は金融市場をこんなふうに根っこから支えている。その国債がなくなっては、金融機
関は商売ができない。ひいては、現在、私たちが生きている金融資本主義社会の発展も望め
なくなってしまう。
金融マンなら、「国債は政府の借金だからない方がいい」なんて絶対にいわないはずだ。
国債がなくなれば、金融機関の仕事は大幅に縮小し、失業しかねないからだ。
アメリカのニューヨーク市場、イギリスのロンドン市場など、金融資本主義が発展してい
る他の国の金融市場でも、国債を介した取引が一番多い。
国債の発行額は国によって違うが、国債がなくては金融市場が成り立たないという点で
は変わらない。
このように国債には金融市場の「コメ」、「必須商品」としての重要な役割がある。
「国債は国の借金だからダメ」というのが、いかに無知からくる見方かということが、ここでもよくわかるだろう。