シニアセンターへ、週2回通いエレンさんと会話するのが楽しみになってきました。
ある日、は思い切って年齢のことを聞いみました。
「私は、1900年に、イギリスで生まれたのよ」「の父と同じ歳です」
「私の夫はイギリスとドイツの戦争でなくなったの、の小さい男の子を抱えて大変だったのよ」
「再婚は考えなかったのですか」「私の夫は、とても良い人だったから、ぜんぜんかんがえなかったわ」と、手を横に振るのでした。
現在は、長男はテキサスにいて孫がいます。
「親孝行の息子で私はとっても幸せよ」といつも言っていました。
キッチンで働いていると色々な人が顔をだしました。
ある日 「オクサン コンニチハ」 と日本語で挨拶する人がいました。
「日本に住んでいたのですか」と、尋ねると「僕は終戦後新潟で3年駐留していました」
そして、胸のポケットから小さい写真を取り出し「この家に住んでいました」と、見せてくれたのでした。池のある広い庭の家でした。
日本人の私を見て昔を想い出したのでしょうか、終戦直後に流行した高峰秀子の「銀座カンカン娘」を歌い出したのです。
2番の歌詞まで覚えているのには吃驚しました。
まわりで聞いていた人は「マサコ、彼の歌っている歌のリズムは合っているの」「合っているわ、とてもお上手よ」難しい節回しを上手に歌いこなしていました。
ある日、は思い切って年齢のことを聞いみました。
「私は、1900年に、イギリスで生まれたのよ」「の父と同じ歳です」
「私の夫はイギリスとドイツの戦争でなくなったの、の小さい男の子を抱えて大変だったのよ」
「再婚は考えなかったのですか」「私の夫は、とても良い人だったから、ぜんぜんかんがえなかったわ」と、手を横に振るのでした。
現在は、長男はテキサスにいて孫がいます。
「親孝行の息子で私はとっても幸せよ」といつも言っていました。
キッチンで働いていると色々な人が顔をだしました。
ある日 「オクサン コンニチハ」 と日本語で挨拶する人がいました。
「日本に住んでいたのですか」と、尋ねると「僕は終戦後新潟で3年駐留していました」
そして、胸のポケットから小さい写真を取り出し「この家に住んでいました」と、見せてくれたのでした。池のある広い庭の家でした。
日本人の私を見て昔を想い出したのでしょうか、終戦直後に流行した高峰秀子の「銀座カンカン娘」を歌い出したのです。
2番の歌詞まで覚えているのには吃驚しました。
まわりで聞いていた人は「マサコ、彼の歌っている歌のリズムは合っているの」「合っているわ、とてもお上手よ」難しい節回しを上手に歌いこなしていました。