アメリカ生活の想い出

1987年から5年間アメリカで過ごし全く英語が出来ないのに、地元のお年寄りと知り合い学び楽しく過ごした記録です。

バグパイプ音楽隊

2009-01-20 18:15:55 | Weblog
ハリエット先生に誘われて、老人ホームで行なわれたイベントに参加しました。
広い敷地の中に、平屋の家が立ち並び、
そこの前にある広場で、イギリスのスコットランド地方の民族衣装で、バグパイプ音楽隊が行進し、女の人が歌ったり、スクウェダンスを楽しく踊ったりして、お年寄りの人達のために催し物が色々繰り広げられていました。
温暖で安全な地域で、皆さんに温かく見守られ、ゆっくりと余生を過ごされている様子はとても恵まれた老人達だと思いました。

それから暫くしてハリエットさんの夫チャールズ(地質調査のエンジニア)が、の夫に自分が関わったロック フィルダムを案内したいとの話があり、運転大好きな夫がドライバーになって一緒に行くことになりました。

ロック フィルダムの行く途中、チャールズ夫妻のお友達の家に寄りブレックファースト(朝食)をご馳走になりました。
その友達の息子さんは日本に滞在の経験があり、日本語が上手でした。日本にいた時、日本のドラマに出演し、そこで知り合った女優がアメリカに来て彼の家に泊まり、小さい一口とんかつ(串カツかも)を作ってもらい食べた話をしていました。
テーブルの上はきれいにセッティングされ、ナプキンは日本の大型の藍染のハンカチが置かれ、壁には日本のカレンダーから切り取ったらしく、四季の季節の写真がピンで留めて飾ってありました。

焼きたてのパンにグリーンティーまで揃え温かいおもてなしをして下さいました。お友達はご夫婦とも大学の教授でした。
リタイヤして悠々自適の生活をしていました。

朝食をご馳走になった後、ダムに着くとチャールズさんは、の夫にロック フィルダムについて、昔を思い出しながら、技術的な説明をして、二人でダムの周辺を楽しそうに歩いていました。


ハリエット先生(2)

2009-01-19 06:40:10 | Weblog
家へ帰るとハリエット先生からがかかってきました。
教会の講堂がとても寒かったので行かなかったの、
よかったら私の家に来ませんか」と言われ、先生の家への道順を教えてくださったのですがサッパリ判りません。
「私は貴方の家への道順を聞いても判らないので、をかけなおし、地図を電話のそばに持ってきますから、もう一度教えてください。
「OK、待っています。」地図をのそばに置いて、かけ直すと今度はバッチリわかり、直ぐにハリエット先生のに伺いました。
最初の印象とは違い笑顔で迎えてくださいました。
週1回ハリエット先生の自宅で習うことが決まりました。
の住んでいるアパートから近くでした。

ハリエット先生はイギリスからカナダのバンクーバーに住みアメリカに移った人でした。
夫チャールズさんとお二人で暮らしていました。
「文法と発音のどちらを習いたいの」と聞かれ、は、頑張るつもりで両方習いたいとお願いしました。
教会から借りてきた教科書を、私のために作りなおして丁寧に優しく教えて下さいました。
発音の練習は先生の声を真似るのですが、全く違った発音が私の口から出るのでした。
先生のようにリズミカルに読めません。出来の悪い生徒で申し訳なく思いました。
お手紙を良く書かれ約100通もいただき、私の英語の勉強に良い教材となりました。

ハリエッット先生さんとエレンさんのお手紙は私の宝物として大切に保存しています。

第5章 ハリエット先生

2009-01-18 19:35:54 | Weblog
無料で英語を教える教会があると聞きは行ってみました。
教会の広い講堂で先生と生徒が向かいあって座っていました。
最初に教えてもらった先生にズーと教えてもらっている様子でした。
あちらこちらで、なごやかに挨拶を取り交わしていました。

一人の女の先生がのそばに来て、「サー勉強をしましょう」といってきました。
厳しい感じの人で、あまり笑顔もなく、教科書をどんどん進めていきました。
1時間過ぎ、先生の名前をしっかりと聞いておきたいと(最初に言ったようでしたが、聞き取れなかったので)先生に尋ね、名前のスペルをおきました。

次の授業の日に教会に行くとの先生はきておりません。
でも1時間ジーと待っていました
3回目に行っても先生は来ておりません
やはり授業の終わるまでまっていると、別の先生が来て、「貴方は誰に教わっているの」と聞きにきました。
「ハリエット先生です」「ハリエットなら私知っているわ、私がハリエットに貴方にするように伝えるから家で待っていなさい」と言われは彼女に電話番号を教えました。


ラスベガスに行く

2009-01-17 10:43:39 | Weblog
シニアの人達が楽しみにしている中でラスベガス行くがありました。
(ラスベガスはアメリカ合衆国西部、ネバタ州南東部にある都市、砂漠の中にある歓楽都市)
は、リツ子さんに誘われて参加したことがありました。
2泊3日の旅行でした。

シニアの人達は5セントの硬貨を沢山貯め参加している人、ギャンブルで儲けたお金を次回のためにキープしてマイナスにならないように上手に楽しんでいる人達でした。

お昼になると美味しくて安いお店をよく知っていて、は皆さんの後に付いて行き一緒に食事をしました。
大きなお皿に沢山盛り付けてあり、はとても食べられず残してしまいましたが皆さんはきれいに召し上がってり、コーヒーも大きなに何回もおかわりして飲んでいたのには吃驚しました。支払いはそれぞれ払い割勘でした。

ホテルののショーは、お年寄りのために特別席が用意され、も一緒にショーを近くで見ることができました。
日本からいらしたお客さんを何回もラスベガスにご案内しましたが、こんなに良い席で見るには初めてでした。

ベビーシャワー

2009-01-16 04:54:45 | Weblog
ミール コーディネイターのバニースさんのベビーシャワーパーティーがありました。

出産前の安定期に行われるのは、出産時の妊婦さんの負担を軽くするという思いやりからで、キッチンでボランティアとしている働いている皆さんが、
お祝いの品物を持ち寄り、バニースさんの出産の無事を共に祈りました。
これはアメリカの行事の一つです。
ボランティアの人たちはバニースさんのために窓ガラスには大きなきれいなピンク色のリボンをあちこちの窓に貼り付け、
テーブルの中央には風船で飾りつけをして華やかなムードを作っていました。テーブルには沢山の品物が重なって置いてあり、そしてバニースさんが、お祝いに頂いた品物を箱から出して披露しました。
は男女共通のものが多く、オモチャや可愛い刺繍がしてある白いベビードレス等で、は育児日記を贈りました。
お店に行きどんながいいかしらと迷うのも楽しいものです。

最後にバニースさんは、お礼にアイスクリームで出来たデコレーションケーキを切り分けも準備して皆さんにさし上げました。
とても美味しかったので帰りにケーキを売っているお店を教わりました。

Who are you ?

2009-01-15 11:38:19 | Weblog
シニアセンターでは毎年決まった行事があり、その一つにピクニックの集いがありました。
昔の人がピクニックに行くときにかぶっていた帽子を皆さんが色々と工夫して被り、誰がピクニックに行く雰囲気を作りだしているかを競いました。

またが参加した行事に、ハロウィンパーティがありました。
シニアの皆さんが意匠を凝らし仮装して会場に集まりました。当時日本から娘が来ていたので、二人で仮装して会場に入りました。

「Who are you ?」 「Who are you ?」 とあちこちから声がかかってきました。
ルビーさんが寄ってきて「マサコでしょう」とすぐばれてしまいましたが、仮装することは自分自身の気持ちを高揚させ楽しい気分にさせてくれました。
仮装している人は褒めあったり、笑いあったりして楽しそうでした。
その中で、真っ黒い衣装を着て背中を大きく曲げ、ゆっくりと歩いて仮装しているおばあさんがいて本物の魔法使いみたいでした。
本当にそっくりだったので笑いながら見ていたら、あまり見るなと、怒られてしまいました。

そのうちに社交ダンスが始まりました。
私の娘は会場の中で一番若いので、すぐに、ご年配の男の人に誘われダンスを一緒に踊り始めました。
仮装していない人もパーティーに参加していました。
ダンスのあと、仮装した人達が会場の中央に円を描くように周りはじめました。
その中から仮装大賞が決まるのでした。
インディアンのかっこうしている人、王様のかっこうしている人、鼻を高くしてピノキオの顔をした人、豚の顔をしている人、それぞれ仮装して楽しそうに歩いていました。

私はそれには参加しなかったので写真を撮ってから途中で退場しました。

ボートパレード

2009-01-14 22:33:41 | Weblog
ニューボートビーチのボートパレードは200以上のボートが参加し、南カルフォルニアでは最大でもっとも歴史のある行事です。

エレンさんの家にご招待された時にその様子を聞いたことがあります。
湾全体が見渡せる素晴らしい景観に「クリスマスのときのボートパレードは良く見えるでしょう」と聞くと「それは素晴らしいわ、沢山のボートが飾り付けをして、湾の中を一方通行で周り、アパートの近くまでボートが来るので、歌を歌っている人、ギターを弾いて楽しんでいる人の顔まで良く見えるのよ」

のアパートからも見えますがエレンさんのアパートほど近くに湾が見えないので、一度そばで見たいとフェリーボートの乗降場まで行ってみると、ボートだけでなく、湾沿いの家々も賑やかにクリスマスの飾りつけをして素晴らしいクリスマスの夜を過ごしたことがありました。

エレンさんがシニアセンターの来ない日がありました。心配になり様子をうかがうため手紙を出すと、暫くしてからエレンさんからお手紙が届きました。
「転んで顔を打ってひどい顔になりセンターに行かなかったけれども今はすっかりよくなったので来週にはいけるでしょう」と書かれたカードをもらいました。
私が手紙を書くと必ず返事が来ました。
沢山届いた手紙の中には余白がないほどぎっしり書いてあるのもありました。
私は辞書を引きながら何度も読み直しているうちに理解することができました。
エレンさんはお手紙を書くのが大好きな人でした。

当時、エレンさんにお会いしたのは89才でしたが、歳だからと弱音をはくこともはありませんでした。エレンさんがいつも元気でおられるには、洋裁をしたり、手紙を書いたり、シニアセンターで社交ダンスをしたり、キッチンでボランティアをしていることがボケないで長生きするのに良い影響をもたらしているのだと思いました。

ピカピカのシンガーミシン

2009-01-13 19:57:50 | Weblog
毎週金曜日は、社交ダンスの日です。エレンさんも必ず参加していました。
その日に、エレンさんは素敵なドレスを着ていました。
素敵なドレスね、よくお似合いだわ」「これは私のハンドメイドよ、息子がパターン(型紙)を買ってきて裁断までしてくれるのよ」小柄なエレンさんは明るい色がお似合いでした。
社交ダンスは、ご夫婦で参加する人や、独りで参加する人が大勢いました。やはり女の人が多く、いつも女友達のメイビーさんと踊っていました。お友達のメイビーさんの歳は、エレンさんとあまり変わりませんが同じイギリス人です。偶然にも、イギリスのヒースロー空港で会いその時以来のお付き合いだと聞いています。

ある日、エレンさんから「マサコ、私の家に遊びにいらしゃい」と、誘われました。
もちろん、喜び勇んで伺いました。見晴らしの良いモダンなアパートです。
「ここからマサコの住んでいるアパートが見えるのよ」確かに遠くのほうにアパートのオレンジ色の屋根が見えました。
「貴方のアパートの家賃は高いでしょう。私たちはここに長く住んでいるのでとてもやすいのよ」と、現在はこの安い家賃では借りられないアパートであると話されました。

エレンさんのアパートはバルボア半島の先端がが見え、湾をはさんだ反対側の高台にあり、湾全体が見渡せました。
お友達のメイビーさんとランチをご馳走になり、そして息子さんの部屋、ご自分の部屋をそれぞれ案内してから、洋服ダンスから作ったドレスを出し広げて見せてくれました。
居間には昔のデザインのシンガーミシンがピカピカに磨かれてすぐ使えるようにしてありました。

オクサン コンニチハ

2009-01-12 15:43:08 | Weblog
シニアセンターへ、週2回通いエレンさんと会話するのが楽しみになってきました。
ある日、は思い切って年齢のことを聞いみました。
「私は、1900年に、イギリスで生まれたのよ」「の父と同じ歳です」
「私の夫はイギリスとドイツの戦争でなくなったの、の小さい男の子を抱えて大変だったのよ」
「再婚は考えなかったのですか」「私の夫は、とても良い人だったから、ぜんぜんかんがえなかったわ」と、手を横に振るのでした。
現在は、長男はテキサスにいて孫がいます。
「親孝行の息子で私はとっても幸せよ」といつも言っていました。
キッチンで働いていると色々な人が顔をだしました。
ある日 「オクサン コンニチハ」 と日本語で挨拶する人がいました。
「日本に住んでいたのですか」と、尋ねると「僕は終戦後新潟で3年駐留していました」
そして、胸のポケットから小さい写真を取り出し「この家に住んでいました」と、見せてくれたのでした。池のある広い庭の家でした。

日本人の私を見て昔を想い出したのでしょうか、終戦直後に流行した高峰秀子の「銀座カンカン娘」を歌い出したのです。
2番の歌詞まで覚えているのには吃驚しました。
まわりで聞いていた人は「マサコ、彼の歌っている歌のリズムは合っているの」「合っているわ、とてもお上手よ」難しい節回しを上手に歌いこなしていました。


はじめましてエレン(2)

2009-01-11 20:58:57 | Weblog
エレンさんはランチ代金を集める受付のボランティアをしていました。
皆さんが食べ終わったあと、ボランティアの人たちの食事となります。
最初、戸惑っていたエレンさんは、だんだんと話かけてくるようになりました。
週2回エレンさんに合わせボランティアをすることになりました。
マサコ、エレンで名前は呼び捨てで、どちらかと言えばおとなしいお年寄りです。
息子さんと二人で暮らしていて息子さんの自慢話を何時もしていました。
判らないことがあるともらうと理解できることが何度もありました。
の英語が周りの人にわからなくてもエレンさんにはわかるらしく、マサコがこのように話していると言いなおして、まわりの人に伝えてくれました。
エレンさんと話すことは、にとっていい英会話の勉強になりました。