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森村泰昌「生き延びるために芸術は必要か」を読む

2024年07月20日 | 読書

森村泰昌(1951年生れ)「生き延びるために芸術は必要か」(光文社新書)をKindleで読んでみた。なぜ、この本を読みたくなったのかは覚えていない。失礼ながら著者のことは知らなかった。美術ファンとして一度読んでみるのも悪くないと思ったのかもしれない。

本書で著者が主張しているところと、自分が感じたことを書いてみたい

第1話 生き延びるのは誰か

  • いくつかのSF映画を出して、人間の行く末にはAIが人間より優位になることがあることを示唆しており、「生き延びるのは誰か」の主語から人間を外して考えてみることが必要と説く

第2話 私が生き延びるということ、フランスシスコ・ゴヤの場合

「カルロス4世の家族(1800年)」

  • 王妃マリア・ルイーサと夫のカルロス4世の間に空間が空きすぎている意味は?マリア・ルイーサをありのままに醜く描いた意味は?これでゴヤが宮廷画家としてどうして生き残れたのかについて考察している、そしてゴヤが画家として生き残るためにやってのけた一種の賭けとは何かを書いている
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    この絵について以前読んだ堀田善衛著「ゴヤ」(集英社文庫)での説明を思いだした、堀田氏いわく、この家族の絵は、一時代の死という不吉なものがかくも絢爛豪華な意匠(ママ)をまとって描かれたものであり、描かれている家族の人数も13人という不吉な数だ。時代が1800年ということを考えればその意味がわかろう。

第3話 私が生き延びるということ、ベラスケスの場合

「ラス・メニーナス(1656年)」

  • この絵には、やはり画家が生き残るということについての深い態度表明があるとしている
  • ラス・メニーナスの中には国王フィリッペ4世は奥の鏡の中に小さく描かれているが、実は、この絵の中心は国王である、すなわち国王の執務室から執務室の椅子に腰かけた国王の目線で見えた隣室にいる娘の王女を描いたものだ
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    参考になる見方だと思った

第4話 華氏451の芸術論(忘却とともに生き残る)

  • レイ・ブラッドベリの書いた「華氏451」というのは、この温度になると紙が燃えるという限界点で、それに絡めて、本が燃やされる、焚書という、近未来を描いたもの
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    焚書に関連して著者は、今日ではさすがに本を燃やすというような下品なパフォーマンスはあまりやらないと述べているが、ちょっと前に開催された愛知トリエンナーレにおいて、本ではないが昭和天皇の写真を焼いて、足で踏みつける画像が作品として展示され、これに税金が使われた
  • アンナ・アフマートワというロシアの詩人(1889年生まれ)はスターリン体制下の過酷な時代を生きた、そして多くの犠牲者を鎮魂する詩を作ったが、それを書いて残さず、友人とともに記憶して残した、こうすれば焚書できない、そしてスターリン時代が終わってから出版した
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    この話を読んで、昨年観た映画「ラーゲリより愛をこめて」を思いだした。シベリア抑留で過酷な体験をし、現地で病気になり日本の家族に遺書を残すが、引揚時に没収される可能性があったので同僚たちが分担して記憶し、帰国してから家族に口頭で伝えに行くという話(その時のブログはこちら)

第5話 コロナと芸術(パンデミックを生き残る)

  • アメリカの1829年以降の不況対策のニューディール政策として芸術家への支援が行われた、それに関連して、著者は芸術家を支援するには鉄則があるとし、それは支援する側(国であれ民間であれ)「お金は出すが口は出さない」ことだという、もちろん支援を受ける側が好き勝手になんでもやっていいというのはあまりに傲慢だという。支援する側と支援される側の間に緊張関係がある相互リスペクトが必要という
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    これはその通りだろうが、「金は出せ、口は出すな」が鉄則だなんて、著者が言う通り傲岸不遜であろう。同じことは学問の世界にも言える、鉄則だけが独り歩きし、「金は出せ、しかし人事や研究範囲には干渉するな」とか言いたい放題だ。納税者からすれば、芸術家や学者に無条件で多額の支援するなんて如何なものかと思うが、一方、そこに彼の国が入り込んできてはいまいか、その時こそちゃんとこの鉄則が貫けているのか
  • コロナにより美術展が中止された、しかし例えば演劇というものはもともと神に見せるものだし、古墳の内部に描かれた絵は人間に見せることを前提としていない、人間に評価してもらえる絵を描くことと自分が描きたい絵を描くということは別だ、それをコロナは再認識させた。
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    なるほど著者の指摘はその通りだろう、しかし、人間には承認欲求というものがあり、自分の描きたいものだけ描いて貧しく暮らすより、多くの人から評価される絵を描いて豊かに暮らすほうを選ぶのが普通だ。これは芸術家が悩み、避けて通れない問題で、例えば、クラシック音楽の世界、陶芸の世界でも同じ問題があったことを以前のブログで書いた(こちらの7番を参照)

第6話 生き延びるために芸術は必要か

  • 芸術とは作品であり、作品とは商品と違って「こんなの有り得ない」というものである、ゴッホの「星月夜」を例に挙げて、この作品はゴッホには夜空がこう見えていた、というものだが普通の人はこんな夜空は「有り得ない」と思う。
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    大変参考になった

第7話 芸術家は明治時代をいかに生き延びたか・その1

  • 著者は明治の様相を司馬遼太郎の「坂の上の雲」を引用しながら、個人の目標と国の目標が一致した高揚していた時代と紹介し、対極にある漱石の考えと対比している
  • 漱石は明治の高揚していた雰囲気を冷笑し、「三四郎」の広田先生、「それから」の代助、画家の青木繁や坂本繁二郎などの考えや画風を紹介している、漱石はメランコリア(わだつみのいろこの宮)の青木繁、牛(うすれ日)の坂本繁二郎を評価していた

第8話 芸術家は明治時代をいかに生き延びたか・その2

  • 青木繁と坂本繁二郎、年齢も故郷など似たものどうしだが、絵の作風や歩んだ道はずいぶん違っていた
  • 青木は「海の幸」で華々しく画壇に大きな衝撃を与え、短時間で走り抜け、29歳で亡くなったが、坂本繁二郎は青木からバトンを受け、長い道のりをゆっくりと走り、87歳で世を去り、二人を通して日本美術史に大きな足跡を残した

おわりに

  • 著者は大学で「私が私であること」というテーマで講義をし、自身の体験的知識として「自分のアイデンティティの空白」を紹介し、別人のアイデンティティで自分を満たそうとする、と話すと、学生から批判され、やはり生き延びるためには、より勇ましくあれと自分自身を鼓舞すべきなのだろうかと自問する
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    私はこの自問がかなりずれていると思う、大事なのは自分自身のアイデンティティを大事にしろと言うことであり、勇ましくしろということではない、そしてそのアイデンティティが侵されそうになったら戦ってでも守る、ということではないか、これが今の日本に一番欠けているところだ
  • 著者は、最後に、本書の問題提起「芸術は生き延びるために必要か」についての結論を書く、曰く、芸術には世界をリードしたり、人類を救う力はないが、生き延びることができなかった人や出来事にまなざしをたむけることだと。
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    この結論には何となく同意できるが、日本の芸術の来し方を振り返ると、例えば、ピカソは「ゲルニカ」を描いて世の中に大きな影響を与えたが、日本人画家は「ヒロシマ」や「ナガサキ」を書かなかったし、「東京大空襲」も書かなかった、これが残念である
  • そして、三島由紀夫の金閣寺を引き合いに出して、生き延びるために求められた「美」や「勇ましさ」であったはずが、それゆえに生き延びることができなくなるとし、最初から自分は「生き延びるために勇ましくあってはならない」との結論に達する
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    勇ましくある必要はないが、生き延びるためには自分のことは自分で守る、という考えと備えは必要でしょう。現在の日本の安全保障環境は非常に悪化しているのに、このようなお考えをお持ちとは・・・こういう考えを持つ日本人が増えることを我が国周辺の独裁者たちはさぞかし喜ぶでしょう

いろいろ参考になった本であった