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映画「テイキング・サイド/ヒトラーに翻弄された指揮者」を観た

2024年07月11日 | 映画

映画「テイキング・サイド/ヒトラーに翻弄された指揮者」を観た、アマゾンプライムで追加料金なし、2001年、イギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・ハンガリー、110分、監督サボー・イシュトヴァーン、原題Taking Sides(どちらか一方を選ぶ、Google直訳)

第二次大戦後、ニュルンベルグ裁判が始まってまもない頃、米軍少佐(ハーヴェイ・カイテル)はベルリンフィルの指揮者フルトヴェングラー(ステラン・スカルスガルド)を糾弾すべく、彼とナチスとの関係を調査する。多くの音楽家がナチス政権に抗議しドイツを離れるなか、国内にとどまり指揮活動を続けた男は、果たしてナチスの凶悪行為を憎む米軍の少佐の激しい追及に耐えうることができるのか・・・

フルトヴェングラーがナチの戦争協力者として糾弾されたことは知っていた、中川右介著「カラヤンとフルトヴェングラー」(幻冬舎新書)を読むとこの間の経緯に詳しい。以前読んだが、詳しいことは忘れたので、映画を観る前に関連するところだけを読もうと思ったが、ほとんど全編この時代のことを書いた本なので、本当にざっと目を通してから映画を観た

映画を観た感想を述べてみよう

  • 米軍によるフルトヴェングラーに対する調査において米軍少佐は「あなたはナチスがユダヤ人虐殺をしていたのを知っていたのになぜナチに協力したのだ」と詰め寄る。しかし、そもそもニュルンベルク裁判や東京裁判は裁判の名に値しないし、裁判だとしても米軍に裁判員の資格はないだろう、彼らも重大な戦争犯罪(非戦闘員に対する原爆投下、空襲)をしているからだ
  • この映画を観ると、結局フルトヴェングラーはナチに協力したとした者として非難されている。それはそういう面はあるだろうが、もし自分がフルトヴェングラーだったらどうしただろうかと考えると、なかなか難しいなと思った。
  • 中川氏の本を読むと、「フルトヴェングラーは戦時下にあって母国の芸術家の庇護者になろうとしたのは疑いもないが、結果的にはナチ体制をも庇護したとみられてもやむを得ない」と述べている。ただ、これには映画でも出てくるがいろんな要因があったことは考慮すべきだろう

  • ナチはフルトヴェングラーの利用価値を認めてある程度の自由を与えた、それをフルトヴェングラーは自分がナチのいろんな要求を拒否したことの成果だと勘違いし、亡命しようと考えなかった、なぜ亡命しなかったのかはこの映画の中でも中佐から追及されているが一つの大事なポイントではあろう
  • 中川氏は、フルトヴェングラーはナチの宣伝塔としての役割を十分すぎるほど果たしたが意図的ではない、彼がユダヤ系音楽家たちの擁護をしていたのは事実だし、ヒンデミット事件で国家と党に反旗を翻したこともあった、と書いているが、結局この映画の副題の通りヒトラーに翻弄された、利用されたのでしょう
  • 更に中川氏は、フルトヴェングラーの性格における致命的な欠陥の一つは優柔不断なことだった、と述べている。例えば、内務大臣の主治医の奥さんから、彼の命が狙われていることを知らされても直ぐに亡命しようしかなった、そして、この映画の中でも、占領軍にもリベラルな人もいて彼を擁護する人もいることが冒頭述べられるし、軍需相が彼のコンサートのあと自宅を訪れ、亡命を勧めている。それでも決断できなかった点は確かに優柔不断だったのだろう
  • 中川氏によれば、アメリカでは亡命しないフルトヴェングラーやカラヤンへの風当たりが強かったが、ドイツやオーストリアでは亡命した者への風当たりが強かった、亡命しなかった者はナチのもとで苦労をし、戦後はナチに協力したとの汚名を着せられた、それに比べれば亡命した人のほうがどれだけ楽だったか、亡命したエーリヒ・クライバーは戦後ウィーンに帰還したが冷ややかに迎えられ、フルトヴェングラーの復帰は歓迎された

  • この映画の最後に、少佐がいくつかの顛末を述べる、曰く、フルトヴェングラーは最終的には無罪になった、しかし、以後アメリカでは指揮できなくなった、自分は彼の名声を十分傷つけた、私は正しいことをやった、と。なんという傲慢さだ、結局有罪でも無罪でもどっちでもいいのだ、名誉を貶めれば。どこかの国の左派新聞と同じだ、いい加減な根拠で騒ぎ、批判対象を貶める
  • 少佐曰く、フルトヴェングラー亡き後、ベルリンフィルの常任指揮者になったのはK(カラヤン)だ。これが意味するとことは何か? 中川氏によれば、カラヤンも亡命しなかったし(両者とも終戦直前には亡命した)、彼はナチ党員であったがフルトヴェングラーはナチ党員ではなかった、そして、両者ともナチに結果的に協力したことを反省していない
  • フルトヴェングラーはいまだに避難されるがカラヤンは非難されることも少ない、ただ、亡命という点ではフルトヴェングラーは亡命先もチャンスも十分あったがカラヤンはなかった(それだけまだ大物とはなっていなかった)、という差はあるだろう。
  • 映画の中で、フルトヴェングラーが指揮した演奏終了後、ヒトラーが観客席から歩み寄り、フルトヴェングラーと握手する映像が写される、その後、フルトヴェングラーが左手に持っていたハンカチを右手に持ちかえるところも写される。これは何を意味しているのか?・・・ヒトラーと握手した右手を拭い、せめてもの抵抗の姿勢を示したのか?
  • この映像ほどナチの宣伝に利用され、フルトヴェングラーの名誉を傷つけたものはないだろう。中川氏の本によれば、この時ヒトラーが来るとは知らされておらず、突然現れたため指揮を投げ出すわけにもいかず、さすがに握手を断る勇気もかった。映像で見たのは初めてだが、フルトヴェングラーがいかにも「困ったな」という表情をしているように見えた。ヒトラーのほうが上手だったと中川氏は述べているが、その通りだろう

いろいろ考えさせられる映画だったが一筋縄ではいかない難しい話である。なお、最終的な非ナチ化審理ではフルトヴェングラーもカラヤンも無罪となった


七月大歌舞伎(昼の部)を観に行く

2024年07月10日 | 歌舞伎

今月も歌舞伎座の公演、七月大歌舞伎(昼の部)を観に行った。3階A席6,000円、今回は前から5列目だった、今日は11時開場で、10時半近くに到着したが、歌舞伎座前は大勢の人でごった返していた、中に入り、座席を見渡すと満員に近い入りではないかと思った、團十郎人気か。終演は15時30分頃だった。

昼の部の演目は珍しく「通し狂言」、義経千本桜をアレンジした成田千本桜だ。歌舞伎座では、一つの演目を最初から最後まで演ずると一日かかる大作もあるので、「見取り狂言」と言って一部の人気がある場のみアラカルト的に演じる方式が定着しているが、今回は義経千本桜という大作を通しで上演するものだ。なお、今回は通し狂言と言っても完全な通しではない。ちなみに日本では通し狂言は国立劇場で行われることが多い。

演目

通し狂言 星合世十三團(ほしあわせじゅうさんだん)
成田千本桜、市川團十郎十三役早替り宙乗り相勤め申し候

発端

  • 福原湊の場

序幕

  • 第一場 堀川御所の場
  • 第二場 伏見稲荷鳥居前の場
  • 第三場 渡海屋の場
  • 第四場 同  奥座敷の場
  • 第五場 大物浦の場

二幕目

  • 第一場 下市村椎の木の場
  • 第二場 同  竹薮小金吾討死の場
  • 第三場 同  釣瓶鮨屋の場

大詰

  • 第一場 川連法眼館の場
  • 第二場 同    奥庭の場

配役

左大臣藤原朝方、卿の君、川越太郎、武蔵坊弁慶、渡海屋銀平実は新中納言知盛、入江丹蔵、主馬小金吾、いがみの権太、鮨屋弥左衛門、弥助実は三位中将維盛、佐藤忠信、佐藤忠信実は源九郎狐、横川覚範実は能登守教経(計十三役):團十郎

静御前:雀右衛門
相模五郎:右團次
小せん:児太郎
片岡八郎/若葉の内侍:廣松
伊勢三郎:男寅
鷲尾十郎/お里:莟玉
逸見藤太:新十郎
お米:梅乃
亀井六郎:青虎
駿河次郎:九團次
猪熊大之進:市蔵
五人組作兵衛:家橘
梶原平三景時:男女蔵
お柳実は典侍の局:魁春
源義経:梅玉

今回の演目は、古典歌舞伎の三大名作の一つ『義経千本桜』のドラマ性に焦点をあて、娯楽性に富んだ演出や新たな趣向、宙乗り、大立廻りを取り入れ、源平の時代に生きた人間たちの運命と修羅を描いた物語。令和元(2019)年7月市川海老蔵(現 團十郎)により初演、好評を博し、今回、その意欲作をさらに練り上げ、團十郎襲名後初めての上演。

なお、演目の「星合世十三團」だが、イヤホンガイドでは、13という数字は團十郎が13代目ということに関係し、星合とは勧進帳のもととなった演目で初代團十郎が上演した「星合十二段」に由来したものという説明だったと思う、また、この千本桜は源平合戦が終わった後の話であり、源氏による平家の追討、維盛、知盛、教経の最後に絡んだ物語だ。

観劇した感想を書いてみよう

  • 今回の演目は何といっても團十郎だろう、13役を早変わりでこなすハードな演出、舞台裏ではさぞかし大変な対応であろうが、大過なく務めたのは立派なものだ、今日届いた松竹の歌舞伎雑誌「ほうおう」のインタビューで團十郎は「舞台裏は自動車レースのF1のピットインのような感じだ」と述べているがその通りなのでしょう。
  • 派手な見せ場が3つあった、そのうちの2つは宙乗りだ、一つは序幕の最後、知盛が義経との大物浦での戦いに敗れ、投身した後、閉幕前に天に昇るように宙乗りにより昇華する場面、もう一つは大詰、佐藤忠信実は源九郎狐が自分の生い立ちを語り、義経が感動して初音の鼓を与え、その後教経と戦ったあとに、やはり天に昇華するように宙乗りして消えていく場面である。両方ともやんやの喝采を受けていた
  • さて、もう一つの最後の派手な見せ場であるが、ネタバレになるのでここでは書くのをやめておこう
  • 面白いと思ったのは、発端の福原湊の場が終わったところだったか、舞台に團十郎が一人出てきて、背後には大きなスクリーンで團十郎が務める13役の人物相関図が示されて、その相関図の説明をしてくれたところだ。以前もこんなことがあったかもしれないが、物語が複雑で登場人物も多いので、いい試みだと思った
  • 13役であるが、それぞれ熱演していたと思うが、佐藤忠信実は源九郎狐だけは團十郎には似合わない役だと思った。「ほうおう」の團十郎のインタビューで團十郎は、13役の中でも特にいがみの権太、知盛、佐藤忠信実は源九郎狐の三役は特に重く、思い入れんある役だ、と述べている
  • 特に佐藤忠信実は源九郎狐については、狐は人間世界を超越して、愛、親への気持ちをもっている、純粋な気持ちを忘れない心を人間は学ばないといけない、そういう作品と解釈して、そこにフォーカスしたと述べている、そこまで心酔している役にケチをつけて申し訳ないが、狐の形をしてピョンピョン欄干を飛び跳ねるのは江戸歌舞伎荒事の本家本元の團十郎には似合わないと感じた。

さて、今日の幕間の食事、いつもの三越銀座の地下、何にしようか迷ったが、大徳寺さいき屋の「さば寿司だし巻き弁当」1,400円にした。甘味は、先日京都旅行で訪れた旧三井家下賀茂別邸のランチで出てきた鶴屋吉信のお菓子が良かったので、その鶴屋吉信の「つばらつばら」238円にした。いずれもおいしかった。

お疲れ様でした


映画「裁きは終わりぬ」を観た

2024年07月09日 | 映画

映画「裁きは終わりぬ」を観た、アマゾンプライムビデオ、1950年、仏、106分、監督アンドレ・カイヤット、原題JUSTICE EST FAITE(正義は終わった)、モノクロ。

ヴェネチア国際映画祭1950年11回金獅子賞(最優秀作品賞)、ベルリン国際映画祭1951年1回金熊賞

薬学研究所に勤めるエルザは、愛人となっていた所長のレモンがガンで助かる見込みがなく、安楽死を頼まれ、殺してしまう。そのために裁判にかけられるが、7人の陪審員は有罪4人で多数となり、エルザは5年の刑を受けることになる、このことの意味を問う作品

予習なしで1回観ただけでは内容をきちんと理解するのは無理だろう、私は今回2回観てある程度理解したが、まだ不十分であると感じる、幸いプライムビデオなので必要な個所を何回も観なおせるので何とかなった。

ストーリーの補足を少しすれば(ネタバレ注意、ただネタバレで観ても十分面白い)

  • 判決は多数決だ、これが結構精神的にはきついのではないか、全員一致ならまだ気が楽だ
  • 7名の陪審員はそれぞれ家庭や日常生活で問題を抱えている、宗教も異なる、陪審員の審議の過程でそれぞれの陪審員の抱えている問題や思想や思考方法などが描かれ、彼らの最後に出す有罪、無罪の評決の間接的な説明にもなっているうまいストーリーの運びだ
  • 陪審員の審議で問題となった論点は
    ①殺された被害者が医者から助からないと言われたため、安楽死を希望し、文書も残してエルザと約束した点
    ②被告は被害者が病気で苦しんでいる間に別の愛人ができて、その逢瀬が目撃された翌日、偶然被害者が苦しみだしたので致死量のモルヒネが投与された点
    ③被害者には3500万フラン?の遺産があり、死ねばエルザに相続権がある点、などである
  • 裁判ではエルザの愛人が証言に立ち、エルザはまじめであり、安楽死させてくれという被害者の希望を忠実に実行すると犯罪になり自分と会えなくなってしまう、そんな約束は破って自分と二人で逃走すればどんなに楽だったか、二人が結ばれれば金など要らない、自分たちには十分な稼ぎがあった、約束をまじめに守った結果、有罪になるのはあまりにひどい、と訴えた
  • 陪審員の一人は女遊びが好きで、裁判中、捨てた女から付け回され、もう自殺すると言われていたのを無視していたら、本当にピストル自殺してしまったという連絡が入ったが裁判中の陪審員には知らせることができなかった、この陪審員は有罪の主張をしたが、この事実を知っていれば無罪を主張し、判決が逆転したかもしれないと悔やむ
  • その他、最後の陪審員の結論表明の際には、いろんな考えが表明され考えさせられる

そして、最後の場面で、次のようなナレーションが流れる

  • 4対3で有罪となり、懲役5年となったが、この5年は、金目当ての殺人としては軽すぎるが、自由を犠牲にして約束を果たしたとしたら重過ぎる
  • いずれにしろ司法の問題であり、陪審員の責任である、誰が被告の行動のすべてを説明できるか、家族や友人の行動を説明できるものなどいない、数時間で他人を理解し、動機を判断して刑を定めるなんて
  • 5年、1825日、愛人と離れて暮らすなんて、別れに耐えられぬという男の言葉の真偽は?、有罪か無罪かなど誰にも分らない、しかし裁きは終わった

アメリカでも「十二人の怒れる男」(1957年)という陪審員の審議を扱った映画があった、しかし、それとこの映画とを比べるとかなり内容が違うような気がする。アメリカ映画は極めてアメリカらしいし結末だし、この映画はフランスらしい結末で、それぞれよく国柄の差が出ていると思った。

いろいろ考えさせられた、安楽死や裁判制度について。映画の中で陪審員の一人が、有罪とするか無罪とするかの判断は、もし自分が被告だったらどうしたか、であると述べたが、そうかもしれない。では私だったらどうするか・・・

非常に優れた映画だと思った、1950年に既にこんなに素晴らしい映画があったとは驚きである


池袋西武「ikebukuro LA BETTOLA da Ochiai」でランチ

2024年07月08日 | グルメ

用事があって東京に出かけた際、池袋でランチを食べることにした。いつもは東武のレストラン街に行くことが多いのだが、この日は、本格イタリアンで有名な池袋西武8階に出店している「イケブクロ  ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」に行ってみた、初訪問。

これは、先日、テレビでシェフの落合務氏が出演している番組を見る機会があり、その人柄に惹かれて一度行ってみようと思っていたからだ。そのテレビ番組では、落合氏がどのように修行してきたのかを紹介し、更に、3年前に悪性リンパ腫ステージⅣと診断され、療養生活の中で料理人として新境地が開けたという話を紹介していた。

いくつかその内容を紹介すると、

  • 若い時イタリアに料理の修行に行き、日本に戻り、イタリアで学んだのと同じ味のイタリアンを出したら、全然客が入らなくて苦しんだ
  • そのうち、日本在住のイタリア人が客として来てくれるようになり繁盛しだした
  • 悪性リンパ腫になって、今までは野菜をほとんど食べなかったが食べるようにした、いままでは家庭で料理することは全くなかったが、料理するようになった
  • 家庭料理はレストランとは違い、レシピ通りにきっちり作る必要はない、不足する材料や調味料などがあれば、あるもので工夫するのが家庭料理だ

落合氏のいいところは、非常に明るい、人懐っこい性格であるところだ、テレビを見ていて親しみが湧くような人と感じた。悪性リンパ腫になった時も深刻にならずにいられるところがすごい。

そこでぜひ一度落合氏のレストランに行って氏の本格イタリアンを食べてみたくなった、多分高い値段の店だろうなと思って調べてみると、池袋西武にも店がある、そして値段も普通だ、先週も一度、開店直後の11時20分くらいに行ったら満席と出ていたので、あきらめて別の店にし、今週、また行く機会があったので今度は11時50分くらいに行ったら、やはり満席で、5人くらい待っていたので、仕方なく椅子に座って待つことにした。

10分ちょっと待って入店できた。4人掛けのテーブルに案内されると、テーブルにはランチメニューが置いてあり、2,200円くらいの前菜+パスタのコースと、3,500円くらいの前菜+パスタ+メインのコースがあった。私はそんなに食べないので前菜+パスタのコースを選び、ドリンクサービスで220円のジンジャエールを注文した。

前菜もパスタも何種類から選ぶ方式で、前菜盛り合わせと、海老とルーコラ、白ごま入り アーリオオーリオスパゲティをたのんだ。アーリオオーリオとはペペロンチーノのことで、オリーブオイルとニンニクでスパゲッティを炒めて、赤い唐辛子を入れたものだ。最近読んだ本で若手ピアニストの藤田真央が書いた「指先から旅をする」(文芸春秋)で、彼が「私はアーリオ・オーリオ・ペペロンチーノを愛してやまない」と述べている、あのアーリオ・オーリオである。

前菜は7種類の盛り合わせでおいしかった、ワインが飲みたくなるような内容だった。パスタは圧巻であった、ニンニクの匂いでかなりのインパクトがあり、小さいバナメイエビというのかブラックタイガーと呼ぶのか、これがいっぱい入っている。パスタにこれらのソースとエビが絡んで大変おいしかった。

店内を見渡すとすべて4人掛けのテーブルになっており、そこに私のような一人客も案内されるので、効率は良くないと思った。二人掛けのテーブルを増やしてもっと客を入れたらいいのにと思った、また、12時50分くらいまでいたが、空席となっているテーブルが複数あるのに外に行列ができていたのが解せなかった。

いずれにしても味は素晴らしかったし、空間にも余裕があるので店内はあまり騒がしくなく、落ち着いた雰囲気でよかった。そして客はすべて女性であり男性は見える範囲では私一人だった。女性客の支持をいかに得るか、というのがレストラン経営のキモなのかもしれない。

ご馳走様でした

 


半蔵門と池袋で買い物

2024年07月07日 | グルメ

今日は都心で歯の定期メンテ、歯ぐきからの出血の有無を確認し、歯垢(プラーク)や汚れ(ステイン)を落とし、虫歯や葉の揺れがないかなどをチェックする。それが終了して、帰りに半蔵門に寄って買い物をしようと思った。

先ずは、いつもの山本道子の店に行ってみる、まだ午前中であったためか、缶入りマーブルクッキーが残っていたので、それを1缶2,080円と、焼き菓子の6個入り詰め合わせを買った(値段は忘れたが1,800円くらいか)。

ここに来なければ買えないという何となくエクスクルーシブな感じがある、そういうところにこだわって、たまに買って帰ることにしている。味は問題なくおいしい。

そのあと、明日の朝のパンを買おうと思って、シェ・カザマに行くと休日、新たに開拓しようと思い、麹町のラトリエ・ド・シマに行ってみると改装中。仕方ないので、この後、池袋でランチを取ろうと思っていたので、池袋西武のパン屋さんで買うことに変更した。

さて、池袋西武、今年のはじめだったろうか、労組のストがあって話題になった、その後、経営側と妥結したようだが、スト決行の時は偶然映画を観に来ていて、ストで閉店中の店の前を通り過ぎただけだった(その時のブログはこちら)。今回は、ここで食事をしようと思ったが、パンも買うことになった

それで、パンについては特にあてはなく、地下鉄から降りて西武の前に来ると「LE BIHAN」(「ル ビアン」)が目に入った。ほかを探すのも面倒なので、ここで買うことに、売り場に入り、適当においしそうだったバゲット(ハーフサイズ)、クロワッサン、カヌレ2個を買った、1,018円。

帰宅してからちょっと調べたら、ル ビアンは1913年、フランス北西部ブルターニュの自然豊かな街「サン・ブリュー」で誕生し、1982年に大阪梅田阪神百貨店にて日本初出店

ル ビアンを象徴する伝統の味は「バゲット・トラディショネル」と「クロワッサン」だそうだ。全くの偶然にその二つを買ったことに驚く。

翌朝、さっそく食べたら、おいしかった。バゲットはいままであまり買ってなかったが、大きく見えるものでも結構食べれるものだ、おいしく全部頂きました。

この後、ランチをとったが、それは別投稿で

ご馳走様でした。


国立近代美術館「TRIOパリ・東京・大阪モダンアート・コレクション」展を観に行った

2024年07月06日 | 美術館・博物館

東京国立近代美術館で開催中の企画展「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」を観に行ってきた、チケット事前購入で2,000円、この日は平日で朝から雨のためか来場者はそれほど多くなかった、外人さんが結構来ていたし、若い人も目立った。主催は出展した3つの美術館、日本経済新聞社、テレビ東京、BSテレビ東京

美術館では、この企画展の狙いを「パリ市立近代美術館、東京国立近代美術館、大阪中之島美術館のコレクションから共通点のある作品でトリオ(TRIO)を組む、主題やモチーフ、色や形、素材、作品が生まれた背景など自由な発想で組まれたトリオ、総勢110名の作家の150点あまりの作品で34のトリオを組み、それをテーマやコンセプトに応じて7つの章に分けて展示、20世紀初頭から現代までのモダンアートの新たな見方を提案し、その魅力を浮かびあがらせる」と宣伝している。

今回の展示のポイントであるトリオでの作品展示のイメージを持ってもらうため、わかりやすい一例で説明したい

この写真は、「Ⅳ 生まれ変わる人物表現」の中のトリオ番号15番の作品、15のテーマは「モデルたちのパワー」

  • 左は、マティス「椅子にもたれかかるオダリスク」(パリ近代美術館、1928)
  • 中央は、萬鉄五郎「裸体美人(重要文化財)」(国立近代美術館、1912)
  • 右は、モディリアーニ「髪をほどいた横たわる裸婦」(中之島美術館、1917)

トリオ展示の上のかなり大きなホワイトパネルにトリオと作品の説明が書いてある、これは文字が大きくて見やすかった

ほかの展示も一つの切り口で3つの美術館から持ち寄った作品をワンセット(トリオ)で展示している

確かにユニークな試みと言えよう、モダンアートと言っても20世紀初頭からの作品なので、抽象絵画的な作品ばかりでなく、日ごろなじみのある作家の作品も多く、楽しく観れた。パリ市立近代美術館は行ったことがないが、大阪中之島美術館は一度訪問したことがある。

この企画展は一部作品を除き、写真撮影OKであったのは評価できる。鑑賞した作品でよかったと感じたものは多くあったが、その中から一部、写真を撮ったものを紹介したい。


1、佐伯祐三、郵便配達夫、1926(トリオ番号、作者、作品名、制作年)、昨年観た東京ステーションギャラリーでの「佐伯祐三展」(こちら参照)にメインで展示されていた作品、その時は写真撮影禁止だった


1、安井曽太郎、金蓉、1934


2、小出楢重、街景、1925


3、ユトリロ、セヴェスト通り、1923


7、ユトリロ、モンマルトルの通り、1912


7、佐伯祐三、レストラン、1927


8、ラウル・デュフィ、電気の精、1953


13、有元利夫、室内楽、1980


20、小倉遊亀、浴女その一、1938


23、カレル・アベル、村の上の動物たち、1951


26、菅野聖子、フーリエ(プロコフィエフ束の間の幻影)、1978、なぜプロコフィエフが出てくるのか?


30、菊畑茂久馬、ルーレット、1964

良い作品がいっぱい展示してあった。展示作品の中には先日アーティゾン美術館で観たブランクーシや、東京都美術館で観たデ・キリコの作品もあった。


14、ブランクーシ、眠れるミューズ、1910


14、デ・キリコ、慰めのアンティゴネ、1973

今回、この展覧会の運営面について、作品情報の説明の文字が大きかったこと、展示室内に休憩や鑑賞用の椅子が置いてあったこと、写真撮影がOKであったことなどが評価できると思った。

観に行く価値がある展覧会だと思った


蔵前で買い物とカフェ

2024年07月05日 | グルメ

今日は都内のかかりつけの眼医者で定期検診、若い時から近視で、パソコンの普及により仕事で一日中パソコンと睨めっこする時間が増え眼を酷使するようになり近視の度も進んだ。眼医者からは近視の強い人は定期的に検査をしたほうが良いとアドバイスされている

若いころは年に1回の検査でよかったが、最近は半年に1回となっている。そんな中での今日の定期検診、視力、眼圧、眼底、視神経などをチェック、特に異常もなくホッとした。次回は視野の検査も実施する。

さて、一安心したところで、今日は帰りに蔵前に寄って、買い物をしようと思った。先ずは蔵前駅のすぐ近くのカヌレ専門店、 KURAMAE CANNELE CAFEに行ってみた、初訪問。店に行ってみると、カヌレの販売をしている窓口があり、4個を購入、1個250円くらいだったか。

店の中にはタブレット端末があり、それで注文して、2階がカフェになっているようだ、1階もテーブルと椅子があり、イートインのような感じになっている、雰囲気はしゃれている。今日はこの後、ペリカンでパンを予約していたので、カフェに寄るのはやめにしたが、次回はカフェにも寄ってみたい。

この後、おなじみのパンのペリカンに行って、午前中に予約の電話をした食パン1斤を買った、500円。ここでは今までロールパンを買っていたが、今回は食パンにしてみた。ロールパンはもっちりしていて、パン生地の密度が高く、非常においしいパンだが、今回は普通の食パンに挑戦してみようと思った。買ってみると思っていたより小さく、普通にスーパーなどで売っている食パンよりも小ぶりだった。

そして、そのあとは、すぐ近くの系列のペリカンカフェに寄ってみた。いつもは混んでいて、店の外に行列ができていることもあるので敬遠していたが、今日は空いていたので、入ってみた、初訪問。一番窓側の席を指定され、腰掛ける。ここはパン屋さんが経営するカフェなので、コーヒー+トーストがお勧めだけど、今日は夕方であったのでブレンドコーヒー500円だけをたのんだ。

出てきたコーヒーカップにはペリカンの絵がかわいらしく描いてあり、飲み干したカップの底にはペリカンカフェと印字されていた。味は若干の酸味があるコーヒーであったがおいしかった。カップも大きめで、満足した。

ここは、以前テーブル席の間はパーティションを設置していたが、今日はすべて撤去してコロナ前の普通の状態に戻っていた、良いことである。

ゆっくり寛げました。

帰宅して、翌朝、さっそくペリカンの食パンを厚切りトーストにして食べてみたが、本当においしかった。パン生地の密度が高く、もっちりしている、素晴らしいパンだ。

蔵前は一昔前の下町の雰囲気と新しいトレンドとが併存するユニークな街になった、また来ます

 

 


NHK「歴史探検、日露戦争、知られざる開戦のメカニズム」を見る

2024年07月04日 | その他いろいろ

NHKで4月のはじめに放送していた「歴史探検、日露戦争、知られざる開戦のメカニズム」という番組に興味を持ち、録画しておいたが、しばらく見る機会がなかった。中村隆英教授の「昭和史」を読み終わったところで、同じ近現代史の日露戦争に関するこの番組も見ようと思った。

副題には「120年前に起きた日露戦争、なぜ戦いに至ったのか? ロシアのイメージが友好国から仮想敵国への変わるなかで起きていた両国のすれ違いと開戦を望む世論の誕生を調査する」とある。

番組の中で説明のあった開戦に至る日露両国の関係を時系列で整理すると以下のようになる(カッコ内は私が名付けたもの)

(衝突期)

  • 1806~7年、江戸時代の終わりにロシア艦隊が樺太や択捉を攻撃する事件が起こる
  • 1811年、ゴローウニン事件、ロシア役人ゴローウニンを幕府の役人が拘束する事件
  • 1861年、ロシア軍艦対馬占拠事件

(交流期)

  • その後、函館を起点に漁業を中心にロシアとの交流が始まる
  • 1884年(明治17年)には東京のニコライ堂が建造開始し、日本における日露の文化交流の拠点になった、東京外語大でもロシア語教育が開始される
  • 1891年(明治24年)、日本訪問中のロシアの皇太子ニコライに滋賀県警の巡査が切りつける事件(大津事件)が起こったが、皇室外交などにより大事には至らず
  • このころ日本でロシア文学ブーム、ロシアでは浮世絵ブーム

(環境激変期)

  • 1894年、日清戦争、ロシアなどによる三国干渉、遼東半島の返還、国民に怒りの声、1895年(明治28年)5月12日、大阪朝日新聞に初めて臥薪嘗胆の用語が出る、5月15日には新聞「日本」の論説に臥薪嘗胆を使いロシアへの復讐をあおる社説、さらに読売新聞は一面に毎日必ず臥薪嘗胆の文字を掲げるようになる、ロシアに対する負の感情が日本中に広まった
  • 1898年、遼東半島の旅順・大連をロシアが租借、1900年から1901年の北清事変でロシアは満州を軍事占領し、清への進出を本格化

(日英同盟締結期)

  • 1902年、日英同盟締結、英国から軍事技術を教わりロシアとの対抗上、大きな自信に、それを利用してロシアとの協商ヘの道を開き戦争回避の可能性を探る、ロシア軍は満州からの撤退を約束した

(世論沸騰期)

  • しかし、ロシア軍は約束を守らず、満州から撤兵しなかったため、開戦論が加速した、その大きな要因となったのは東京帝国大学の教授をはじめとした知識人たちが発表した「七博士の意見書」、彼らは1903年6月24日の東京日日新聞で、今こそロシアと戦う最後の好機だと主張し、国民の主戦論を押していった
  • さらに、国民を煽り立てた流行語として「恐露病」という言葉が出てきた、1903年(明治36年)9月27日の読売新聞では「いま日露戦争に反対するものは恐露病にかかった臆病者だ」として当時ロシアとの和平を模索していた伊藤博文らが批判された
  • これらによって戦争を回避すべきだとの声がかき消され、開戦一色になった

(開戦)

  • 1904年2月4日の御前会議、明治天皇は戦争回避を主張したが、伊藤らはもうその余裕はないとし、8日開戦した

こうしてみてくると、日露開戦を煽ったのは新聞、学者であるという指摘は物事の一面をとらえていると思う。

新聞などが世論を煽るのは今でもある、慰安婦問題、集団的自衛権の憲法解釈変更、森友問題、統一教会・・・新聞などが来る日も来る日も取り上げ、批判のオンパレード。うさん臭いと思わないか、こういう時には要注意であるのは歴史が証明しているだろう、また、大学教授が出す意見書だからと言ってすぐに信用してはいけないだろう、この番組はそういうことを教えていると思った


那須烏山市観光(2日目)

2024年07月03日 | お出かけ・国内旅行

さて、宿泊ゴルフ2日目、ゴルフが終了してゴルフ場を出たのが1時半くらいだったか、この日は那珂川町にある馬頭広重美術館に行ってみた、ここは2回目の訪問。入場料は500円、この美術館は2000年(平成12年)11月にオープン、隈研吾設計、美術館のホームページによれば、

「広重の芸術と伝統を表現する伝統的で落ち着きのある外観」をコンセプトとし、ゆったりとした平屋建てに切妻の大屋根を採用。美術館全体は、地元産の八溝杉による格子に包まれ、時間とともに移りゆく光によってさまざまな表情を見せます。内装にも地元の材を使い、壁は烏山和紙、床は芦野石でできています、としている。

阪神・淡路大震災で被災した青木藤作氏の遺族から、歌川広重の肉筆画を中心とするコレクション寄贈の申し出が馬頭町(現・那珂川町)にあったことが美術館設立のきっかけ。寄贈されたものは「青木コレクション」として同館所蔵品の中心作品となっている。館名の「広重」は、青木が広重の作品を好んだことによる。

葛飾北斎の作品展示を中心としたすみだ北斎美術館が2016年に東京の墨田区に開館したが、それよりはるか前に、遠く離れた馬頭の町に広重美術館ができていたとは。

北斎や広重のことはそんなに詳しく勉強したことがなかったが、最近、NHKドラマで「広重ぶるう」をやっていたのを偶然見て、少し広重に興味を持ったところだった。

今日の展示は、一つの展示室では広重作品を、その他の展示室では企画展として「もうひとつの源氏物語-偐紫田舎源氏(にせむらさき いなかげんじ)-」展を開催していた。いずれも写真撮影はOK、但し、フラッシュ禁止。

江戸時代に柳亭種彦が執筆し、ベストセラーとなった『偐紫田舎源氏』の挿絵を手掛けたのが三代歌川豊国(国貞)。本展覧会は『偐紫田舎源氏』やその続編をもとに描かれた浮世絵、三代歌川豊国による「今源氏錦絵合(いまげんじにしきえあわせ)」を中心に、江戸時代の『もうひとつの源氏物語』を紹介するもの

「偐(にせ)」とは“偽”の紫式部が作った話、あるいは『源氏物語』に“似せ”た話という意味で、登場人物の多くが『源氏物語』の人物に擬えて、似た名前が付けられたもの、展示室内には物語の筋に従って挿絵となった浮世絵が展示され、その場面の説明が簡単に書いてあるので参考になる。ただ、私は恥ずかしながら源氏物語を読んだことがないので、『偐紫田舎源氏』の面白さもピンとこなかった。いつか機会を見つけて口語訳の源氏物語に挑戦したいと思っている。

広重美術館を観た後、再び烏山市に戻り、これも以前一度訪問したことのある島崎酒造に行った。ここは地元の酒造で創業は嘉永二年(1849年)というから凄い。ここのブランドは東力士という日本酒だ、大吟醸や純米酒など東力士ブランドで何種類もの日本酒がある。東力士という酒名は、2代目の島崎熊吉が無類の相撲好きであったことに由来する。

この酒造が有名なのは、洞窟で日本酒を熟成していることだ。そして、この洞窟を見学することができるのである。土日は毎週、平日も前日までに申し込めば見学できる、一人200円。洞窟は車で10分くらい離れたところにある。

この洞窟は、第二次世界大戦末期に戦車を製造するために建造された地下工場跡地、戦後、何十年もの間放置されていたが平成19年から清酒の貯蔵庫として借り受けて使っている、年間平均気温は10度前後、日光がまったく差し込まない洞窟は、熟成酒を造り出すには最高の環境、内部には縦100メートル、横60メートル四方の区画に縦3列、横5列の回廊が掘られている。映画などの撮影、コンサート、落語などのイベント用にも使われているそうだ。

この日は、島崎酒造の方に中を案内してもらった。小高い丘の中腹に入口がありカギを開けて中に入ると驚きの連続だ、外からは全く想像できない別世界、気温が14度くらいだった、丘は砂岩でできており、戦時中に100人がかりで1か月で掘ったという。

「熟露枯(うろこ)」というのがここで長期間熟成された古酒のブランドで、熟成期間によって値段も異なるが、安くはない。

ここはテレビでの「居酒屋新幹線」という番組で取り上げられたことがあり、サラリーマン役の真島秀和がこの店を訪問し、この熟露枯大吟醸を買って出張帰りの新幹線で一杯やるというものだ。店内でその模様を録画で放映していた。

今日は、四合瓶の東力士純米生酒と爽快純吟酔夏を買って帰った、ともに1,760円。

買い物も済んで、一路自宅を目指して出発した。そして、帰宅してさっそく夕食で東力士純米吟醸を飲んだが、大変おいしかった。

また、この日は都知事選に関連してネットで話題の「岩下の新生姜」を買ってみた。この新生姜を細かく切ってきゅうりと和えて食べてみたがおいしかった。

お疲れ様でした

(完)


那須烏山市観光(初日)

2024年07月02日 | お出かけ・国内旅行

ゴルフで烏山城カントリーに宿泊で行った際、初夏の昼の時間の長さを利用して周辺の観光スポットなどに行ってみた。

まず、初日、ゴルフラウンドが終了したのが2時半、まだ夕食まで時間があるので烏山市内のどこかに行ってみようと思い、ネットで探してみると、龍門の滝、という名勝地があった、そしてその滝のすぐそばにカフェがあるという。まずはそのカフェに立ち寄りラウンドの疲れをいやそうと思った。

ゴルフ場から車で20分くらいだったか、場所はすぐに分かった。滝の入口近く、江川の川沿いの道路に面してカフェ「滝の茶屋ガパガポ商店」はあった。入ってみると先客が2名、店内はそんなに広くなく、奥の川沿いの席に座れた。ここはカフェの目の前に滝につながる江川が流れておりそれが見られる、テラス席もあるが、今日は室内で川を見下ろせる席に腰掛けた。

珈琲ゼリーと抹茶パフェをたのむ、待っている間に目の前の川の流れに見とれる。最高の雰囲気だ、自然の中のカフェという感じだ。店ではクッキーや甘味も販売していた。一番いい季節に来れた。ゆっくり珈琲ゼリーとパフェを頂いて、店を後にした。

そして、次は、すぐ近くの龍門の滝に、カフェから歩いて2、3分で到着、ここは以前1度来たことがあった。前日まで雨が降っていたせいか水量は多く、見物するにはちょうど良かった。この滝は、長さ65メートル、高さ20メートルあるそうだ。ここは昔、神通力を持った竜神様が棲み、村人たちの願いをかなえたと伝えられている、何人か見物している人がおり、その後も結構観光客が来ていた。

この滝の上部の後ろには道路が走り、その奥にはJR烏山線が通っており、1時間に1本か2本、通過する、その電車が走っているときに滝の写真を撮るのが良いそうだが、これはあらかじめ時間を調べてからでないと無理だ。

そのあとは、そのJR烏山線の烏山駅に行ってみた、初訪問。駅舎はユニークなデザインで目立つ、我々が行ったとき、ちょうど烏山線がホームに到着していたので写真をとれたのはラッキーだった、時刻表を見ると1時間に1本しか走っていない

ここ烏山駅は終点で、ここを出発して、反対側の終着駅は宝積寺とあるのを見て驚いた、2、3か月前にゴルフの帰りに立ち寄ったあの隈研吾が設計した宝積寺駅だ(その時のブログはこちら)。電車は確か3両編成で結構お客さんが乗っていた。


(ユニークな駅舎、斜めのラインが宝積寺駅に似ている)

(2日目に続く)