盛夏の季節、天候不順のこの頃

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第37回上尾市美協展開催

“時の流れ”

2012-10-08 09:00:07 | 上尾市
上尾駅前から転居してはや、3カ月経ちました。現在の住居は13階で眺望がよいです。
北側は、ベランダより浅間山が左に正面に上毛三山の妙義山、榛名山、赤城山が見えます。
そして、少し右に日光の男体山が雪の化粧で顔を見せています。

                                       



東側のベランダからは、左奥に上尾市文化センター、上尾警察そして、右に上尾市役所。
すぐ手前左に上尾市立図書館の建物が一望できます。


                 





 南側は、上尾駅そして、遠方に大宮駅付近の風景が「絵はがき」のように見ることが出来ます。

                

                 


           上尾駅、遠方に大宮駅付近の風景


また、西側通路からは、上尾総合中央病院を手前に、遠方には富士山がクッキリ見えます。
私は、四捨五入すれば「古希」です。、、、まもなく70歳となります。
 「古希」の由来は唐の詩人、杜甫の曲江詩「人生七十古来稀」にちなんでいる。


               
                    



 今の住まいの周囲の風景は、私の人生の”集大成みたいなロケーション”です。
今後、時間をみて四方の上尾風景を油絵で描いてみたいと思っています。今日は、10月8日(祭日)
朝陽が東より輝きはじめました。朝の6時です。 「おはようございます」とにかく健康に感謝です。



「今日と言う日は、一生に1回です。出会った人に最善を尽くし生きて行くことがとても大切、、、」など
20歳に読んだ本にかんめいして生きてきてます。(カールヤスパース著、実存哲学より)
 今日と言う日を大切にして生きて行きたいと思っています。
(アルベルト譽)


母、さくの“49日法要”納骨が天人寺にて

2012-10-08 08:51:16 | 法事
2012年10月7日(日)群馬県伊勢崎市平塚にて町田さく(母)9月1日死去の49日の法要、
納骨「天台宗“天人寺”」町田家(墓地)が親族と隣組のみなさん50名ほどで行われました。






① 49日の法要(実家)








    町田家墓地(2012.10.7)

昨日は、台風の影響かと思われる朝方の小雨もあがり、午前10時半から実家で天台宗の
右島住職さまの法要が行われました。





(アルベルト譽)









<父の法事・記録>

天台宗“天人寺”


 町田六郎、天台宗”天人寺”の町田家の墓地にて納骨が行われました。
会席は、参列者みなさまと深谷市大塚の割烹「楓」でお食事となりました。
在りし日の“母の想い出話し”など語りながらご親戚と参列者の皆様との親睦の絆を深め無事
に終了となりました。





③ 町田家の墓地





      <天台宗・天人寺の本堂>

<父の記録>
平成19年1月28日、町田六郎 享年99歳(没)「至誠院慈眼和敬居士」
の一周忌法要が天人寺の右島住職によりとり行われました。


町田家親族並びに、親戚・隣組40数人の前で、天人寺右島方丈様の読経
が行われました。 ご焼香の後に右島方丈様が一周忌の法要の由来と天台
宗の歴史などお話をしてくださいました。




      天人寺
「心を大切にして生きて行く事の大切さ、、、」などを改めて感じました。





      <お墓にて ご焼香>2008・1・20

天人寺、町田家の墓で親戚並びにご親戚・隣組のご焼香が行われました。





       <赤城山>2008・1・20  

背に、赤城山が美しく聳えるなかで、1人ひとりの焼香が行われました。



■天台宗・天人寺は、利根川べりのお寺で”八甲田山から還ってきた男”の碑が
建てられています。 福島大尉
 八甲田山死の彷徨 ( 新潮文庫 )新田次郎 著 、、、「映画」
 明治35年1月(1902年)の八甲田山で青森第5連隊の雪中行軍210名のうち
199名が凍死する惨事が、、、。しかし、同時に別ルートをたどっていた弘前第31
連隊の37名は全員生還しました。



        <天人寺境内の福島大尉の碑>       

 そのときの指揮官が、「福島大尉で伊勢崎市境平塚出身」です。
映画の中では、高倉健が「福島大尉」として、この指揮官を演じています。




<福島大尉の立看板>
 

 (ご参考)
偶然にも八甲田山の西側、弘前の歩兵第三十一聯隊でも実施計画が進んでいた。
実際、三十一聯隊の方が3年前から計画に着手していた。

行軍指揮官は福島泰蔵大尉。(夏季に八甲田行軍、冬期に岩木山雪中行軍を成功
させている)
人員は大尉の他、将校2名・見習士官7名・見習医官2名・下士官(軍曹・伍長)19名
・看護手2名・兵卒4名の計37人に地元新聞社・東奥日報の従軍記者1名を加えた合
計38名編成。

行軍経路は弘前~小国~切明~銀山~十和田湖(南側に沿って迂回)~宇樽部~中里
~三本木(現・十和田市)~増沢~田代~田茂木野~青森~浪岡~弘前の行程240余
km。
荷物は背嚢に詰め、銃を担ぎ、道中は案内人を付け、民泊を予定していた。(行李隊無。
10泊予定)

 そして、福島大尉率いる弘前歩兵第三十一聯隊雪中行軍隊は、1月20日5時30分に
弘前の聯隊本部(現・桔梗野)を出発した。
未曾有の豪雪地帯への祈願を込め、聯隊を挙げての盛大な見送りであった。

                                           以上



<満92歳の母・深谷市の楓にて>2008.1.20




(アルベルト譽)