これは一人の偉大な人物の伝記映画である。監督は俳優としても著名なリチャード・アッテンポロー。そして主役のマハトマ・ガンジーを演じたのはこれが映画初出演だったベン・キングズレ―。
父親がインド人のキングズレーはイギリスの舞台俳優で、シェイクスピア劇を中心に活動し高く評価されていた為、撮影前からその演技力は折り紙付きではあったのだが、実際に鑑賞するといやはや驚嘆すべき存在感で立ち現れてくる。もはや演技の域を超えているといっても過言ではない。ガンジーその人が銀幕の中で静かに佇み、リアルに呼吸をしている。そして青年期からその死までを泰然と演じきったキングスレ―は、この映画で見事に第55回アカデミー主演男優賞を受賞した。この時にノミネートされていた他の男優は、ダスティン・ホフマン、ジャック・レモン、ポール・ニューマン、ピーター・オトゥールというハリウッドでも超一流の顔ぶれだったが、その中でもキングズレ―の才能と努力は既存の演技力の地平から離陸し飛翔していた。役になりきる為の模写や模倣への執念は、そうしたスタイルでは右に出る者がいないと云われるロバート・デニーロさえも凌駕しているように感じられる。そしてこの映画は主演男優賞だけではなく、作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞、美術監督・衣装賞、衣装デザイン賞、編集賞を受賞している。大変な快挙であるが、これはある意味、当然の帰結なのかもしれない。なぜならこの映画に関わった全ての映画人がガンジーを深く尊敬しているからだ。これはそのようにガンジーの偉業に敬意を表した人々が結集し生まれた大作である。上映時間は約3時間で、日本での劇場公開時には途中休憩を挟み上映された。
物語の構成も正統的な重厚長大さで、冒頭に大群衆の中でガンジーがヒンズー教右派の青年に射殺されるシーンから始まり、世界中が彼を称える盛大な葬儀を経て、この聖人の激動の半生が綴られていく。まず青年弁護士のガンジーが南アフリカで人種差別を受けて列車から叩き降ろされる場面。ここでガンジー自身に明確な変革へのスイッチが入る。それまでの彼は弁護士の職業を全うすることで、大英帝国の植民地であるインド社会をより良き方向へ導こうと希望に燃えていたのだが、それが視野狭窄であったことを思い知らされるのだ。インドでは財力のある家系の出身で勉学に励みイギリスに留学した彼も、有色人種というだけでカーストの最下層の如き下賤の扱いを受けた。そしてこの不条理な現実に直面し彼は目覚める。云わばここが帝国からの植民地解放という未来への決意表明ともいえるターニングポイントであろう。以後、彼はエリート意識を捨てて弁護士の職を辞し母なる郷土インドに帰還する。それから身に着けたのは弁護士時代の英国スーツではなく、インドの風土に合った質素な薄い肌着のような伝統的衣装であった。
ガンジーというと、「非暴力」と「不服従」という二つの言葉が有名だが、物語が進行するにつれ、私達は学校の歴史の授業や、本から得る知識よりも具体的にそれを映像で理解することができる。そう、これは実に教育的、啓蒙的映画なのだ。それはアッテンポロー監督の強い指針でもあろう。彼は細心の注意を払い、ガンジーの人生を追うことでその思想や行動の正しさを教条的ではなく、映像の流れによって分かり易く伝えてくれる。そしてこの「非暴力」と「不服従」という民主的運動における平和主義的精神と行動原理は今もなお不滅である。それゆえ基本的人権が尊重され保障されている今日の民主主義社会はガンジーの思想の恩恵を多分に受けていると云えるだろう。それを証明するかのように彼の死後、第二次世界大戦の終戦を経て世界中の植民地の多くが独立したし、アメリカ合衆国では人種差別に抗議した公民権運動が沸き起こった。強大な権力による圧制からの解放を目指すという点では、ガンジーの方法論は常に有効であり、20世紀には実現が不可能と思われていた南アフリカ共和国のアパルトヘイトの封鎖や、ベルリンの壁の崩壊、ソ連の解体による冷戦の終結が具現化した。まさにそんなことは起きるわけがないと思われていた事が実現したのであり、このような歴史の理想的な転換点にはガンジーの影響が色濃く表れている。21世紀に入っても、アメリカ合衆国では初めて黒人が大統領に就任したし、アラブの春では独裁国家がドミノ式に倒れていった。今年にオバマ大統領が日本の広島を訪れた際のスピーチにもそれは如実に現れている。「核なき世界」とは核兵器の使用という壊滅的に恐ろしい暴力を絶対に起こさないことであり、もしそのような非人道的な選択をする国家権力や政府が私達を支配するならば、私達はガンジーの唱える不服従で異議申し立てをし非暴力で抵抗するべきなのだ。
この映画はガンジーの澄んだ精神のように映像もまた非常に美しい。権力が情け容赦なく民衆を蹂躙し虐殺する惨劇が現出する中、そのように過酷な現実ゆえ、インドの悠久な自然に慰められ癒され、心を洗われるような心地にさせられる。圧巻なのは塩の行進のシーンではないだろうか。大英帝国の塩の専売に抗議する為に、スタート地点の川から目的地の海まで380キロメートルを徒歩で進む。賛同する人々は老若男女を問わず、階級の差も乗り超えて増え続け、ほんの一滴の水がやがては大河となり生命の源である海へと合流する。海岸で海水から塩を取るガンジーは、事態の収拾を図るイギリス警官に棍棒で殴られ取り押さえられるのだが、当然彼は暴力に対し反撃しない。そしてこのガンジーの非暴力の姿勢は権力者の意に反し、この地上のあらゆる場所で国も宗教も人種も民族も問わず受け継がれていく。目には目を、歯には歯を、暴力に対し暴力で対抗しても終わりのない憎悪の連鎖が生まれるだけである。そしてそれは戦争という事業、搾取というシステムにより、支配者だけが富み栄える結果となる。結局、暴力に対しては非暴力こそが有効な選択肢であり手段なのだ。
映画の後半で、ガンジーは大きな挫折と無力感を味わう。大英帝国から遂にインドは独立を果たすのだが、ヒンズー教のインドとイスラム教のパキスタンに分離独立することになってしまったからだ。つまり宗教の壁を超えることはできなかったのである。ガンジーにしてみれば宗教こそが、国や民族や人種の違いに関係なく人々が和解し融和できる最高の指標であったはずなのに。そしてこのような宗教紛争は現代にも通じる大きな問題である。この問題を長い時間をかけてでも解決することが、今後の人類の課題であり使命であろう。
映画のキャストは超豪華だ。数多くの欧米人の大物俳優がガンジーを主題にしたこの映画に馳せ参じた。ジョン・ギールグッド、トレヴァー・ハワード、エドワード・フォックス、ジョン・ミルズ、キャンディス・バーゲン、マーティン・シーン等、主役級の名優がずらりと顔を揃えている。そしてそうした欧米の映画人の心意気に呼応するように、母国インドの俳優も最高の演技をしている。只、私は本来この「ガンジー」という映画をベスト1に選びたいくらいなのだが、それが6位になってしまったのは、こうした層の厚さに原因がある。あまりにも名だたる名優を使いすぎてはいないだろうか?勿論、結果的には主演のベン・キングズレ―はそうした大物達と対峙し見事に大役を果たしてみせた。これはあくまでも私の推測だが、アッテンポロー監督は当初これほど超豪華メンバーを集める計画ではなかったのではないか?それがガンジーの伝記映画を制作するという具体化に伴い、共感した人々が自然に集まってしまった。そして皮肉にもその層の厚さゆえに全体のバランスが若干完成度を損なっている印象を受けてしまうのだ。私が一番残念に思うのは、音楽の担当が現代インド音楽の巨匠ラヴィ・シャンカールだけではなかったことである。つまり編曲もラヴィ・シャンカール本人かインド人にするべきだったと思うのだ。
最後に少し辛口の批評も書いてしまったが、私がベスト10に選んだ映画の中で、鑑賞中に涙を流したのは「ガンジー」だけである。ラストのガンジーの遺灰が静謐な黄昏を迎えたガンジス川に注がれるシーン。老いたガンジーの枯れた声のメッセージを聞いた時に感極まり、そしてそのすぐ後に小鳥の囀りのような優しい女性のエンディングの歌声を聴き、とめどない涙が頬を伝った。ガンジーのこのメッセージは是非、映画をご覧になってご確認ください。本当に素晴らしい映画です。
父親がインド人のキングズレーはイギリスの舞台俳優で、シェイクスピア劇を中心に活動し高く評価されていた為、撮影前からその演技力は折り紙付きではあったのだが、実際に鑑賞するといやはや驚嘆すべき存在感で立ち現れてくる。もはや演技の域を超えているといっても過言ではない。ガンジーその人が銀幕の中で静かに佇み、リアルに呼吸をしている。そして青年期からその死までを泰然と演じきったキングスレ―は、この映画で見事に第55回アカデミー主演男優賞を受賞した。この時にノミネートされていた他の男優は、ダスティン・ホフマン、ジャック・レモン、ポール・ニューマン、ピーター・オトゥールというハリウッドでも超一流の顔ぶれだったが、その中でもキングズレ―の才能と努力は既存の演技力の地平から離陸し飛翔していた。役になりきる為の模写や模倣への執念は、そうしたスタイルでは右に出る者がいないと云われるロバート・デニーロさえも凌駕しているように感じられる。そしてこの映画は主演男優賞だけではなく、作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞、美術監督・衣装賞、衣装デザイン賞、編集賞を受賞している。大変な快挙であるが、これはある意味、当然の帰結なのかもしれない。なぜならこの映画に関わった全ての映画人がガンジーを深く尊敬しているからだ。これはそのようにガンジーの偉業に敬意を表した人々が結集し生まれた大作である。上映時間は約3時間で、日本での劇場公開時には途中休憩を挟み上映された。
物語の構成も正統的な重厚長大さで、冒頭に大群衆の中でガンジーがヒンズー教右派の青年に射殺されるシーンから始まり、世界中が彼を称える盛大な葬儀を経て、この聖人の激動の半生が綴られていく。まず青年弁護士のガンジーが南アフリカで人種差別を受けて列車から叩き降ろされる場面。ここでガンジー自身に明確な変革へのスイッチが入る。それまでの彼は弁護士の職業を全うすることで、大英帝国の植民地であるインド社会をより良き方向へ導こうと希望に燃えていたのだが、それが視野狭窄であったことを思い知らされるのだ。インドでは財力のある家系の出身で勉学に励みイギリスに留学した彼も、有色人種というだけでカーストの最下層の如き下賤の扱いを受けた。そしてこの不条理な現実に直面し彼は目覚める。云わばここが帝国からの植民地解放という未来への決意表明ともいえるターニングポイントであろう。以後、彼はエリート意識を捨てて弁護士の職を辞し母なる郷土インドに帰還する。それから身に着けたのは弁護士時代の英国スーツではなく、インドの風土に合った質素な薄い肌着のような伝統的衣装であった。
ガンジーというと、「非暴力」と「不服従」という二つの言葉が有名だが、物語が進行するにつれ、私達は学校の歴史の授業や、本から得る知識よりも具体的にそれを映像で理解することができる。そう、これは実に教育的、啓蒙的映画なのだ。それはアッテンポロー監督の強い指針でもあろう。彼は細心の注意を払い、ガンジーの人生を追うことでその思想や行動の正しさを教条的ではなく、映像の流れによって分かり易く伝えてくれる。そしてこの「非暴力」と「不服従」という民主的運動における平和主義的精神と行動原理は今もなお不滅である。それゆえ基本的人権が尊重され保障されている今日の民主主義社会はガンジーの思想の恩恵を多分に受けていると云えるだろう。それを証明するかのように彼の死後、第二次世界大戦の終戦を経て世界中の植民地の多くが独立したし、アメリカ合衆国では人種差別に抗議した公民権運動が沸き起こった。強大な権力による圧制からの解放を目指すという点では、ガンジーの方法論は常に有効であり、20世紀には実現が不可能と思われていた南アフリカ共和国のアパルトヘイトの封鎖や、ベルリンの壁の崩壊、ソ連の解体による冷戦の終結が具現化した。まさにそんなことは起きるわけがないと思われていた事が実現したのであり、このような歴史の理想的な転換点にはガンジーの影響が色濃く表れている。21世紀に入っても、アメリカ合衆国では初めて黒人が大統領に就任したし、アラブの春では独裁国家がドミノ式に倒れていった。今年にオバマ大統領が日本の広島を訪れた際のスピーチにもそれは如実に現れている。「核なき世界」とは核兵器の使用という壊滅的に恐ろしい暴力を絶対に起こさないことであり、もしそのような非人道的な選択をする国家権力や政府が私達を支配するならば、私達はガンジーの唱える不服従で異議申し立てをし非暴力で抵抗するべきなのだ。
この映画はガンジーの澄んだ精神のように映像もまた非常に美しい。権力が情け容赦なく民衆を蹂躙し虐殺する惨劇が現出する中、そのように過酷な現実ゆえ、インドの悠久な自然に慰められ癒され、心を洗われるような心地にさせられる。圧巻なのは塩の行進のシーンではないだろうか。大英帝国の塩の専売に抗議する為に、スタート地点の川から目的地の海まで380キロメートルを徒歩で進む。賛同する人々は老若男女を問わず、階級の差も乗り超えて増え続け、ほんの一滴の水がやがては大河となり生命の源である海へと合流する。海岸で海水から塩を取るガンジーは、事態の収拾を図るイギリス警官に棍棒で殴られ取り押さえられるのだが、当然彼は暴力に対し反撃しない。そしてこのガンジーの非暴力の姿勢は権力者の意に反し、この地上のあらゆる場所で国も宗教も人種も民族も問わず受け継がれていく。目には目を、歯には歯を、暴力に対し暴力で対抗しても終わりのない憎悪の連鎖が生まれるだけである。そしてそれは戦争という事業、搾取というシステムにより、支配者だけが富み栄える結果となる。結局、暴力に対しては非暴力こそが有効な選択肢であり手段なのだ。
映画の後半で、ガンジーは大きな挫折と無力感を味わう。大英帝国から遂にインドは独立を果たすのだが、ヒンズー教のインドとイスラム教のパキスタンに分離独立することになってしまったからだ。つまり宗教の壁を超えることはできなかったのである。ガンジーにしてみれば宗教こそが、国や民族や人種の違いに関係なく人々が和解し融和できる最高の指標であったはずなのに。そしてこのような宗教紛争は現代にも通じる大きな問題である。この問題を長い時間をかけてでも解決することが、今後の人類の課題であり使命であろう。
映画のキャストは超豪華だ。数多くの欧米人の大物俳優がガンジーを主題にしたこの映画に馳せ参じた。ジョン・ギールグッド、トレヴァー・ハワード、エドワード・フォックス、ジョン・ミルズ、キャンディス・バーゲン、マーティン・シーン等、主役級の名優がずらりと顔を揃えている。そしてそうした欧米の映画人の心意気に呼応するように、母国インドの俳優も最高の演技をしている。只、私は本来この「ガンジー」という映画をベスト1に選びたいくらいなのだが、それが6位になってしまったのは、こうした層の厚さに原因がある。あまりにも名だたる名優を使いすぎてはいないだろうか?勿論、結果的には主演のベン・キングズレ―はそうした大物達と対峙し見事に大役を果たしてみせた。これはあくまでも私の推測だが、アッテンポロー監督は当初これほど超豪華メンバーを集める計画ではなかったのではないか?それがガンジーの伝記映画を制作するという具体化に伴い、共感した人々が自然に集まってしまった。そして皮肉にもその層の厚さゆえに全体のバランスが若干完成度を損なっている印象を受けてしまうのだ。私が一番残念に思うのは、音楽の担当が現代インド音楽の巨匠ラヴィ・シャンカールだけではなかったことである。つまり編曲もラヴィ・シャンカール本人かインド人にするべきだったと思うのだ。
最後に少し辛口の批評も書いてしまったが、私がベスト10に選んだ映画の中で、鑑賞中に涙を流したのは「ガンジー」だけである。ラストのガンジーの遺灰が静謐な黄昏を迎えたガンジス川に注がれるシーン。老いたガンジーの枯れた声のメッセージを聞いた時に感極まり、そしてそのすぐ後に小鳥の囀りのような優しい女性のエンディングの歌声を聴き、とめどない涙が頬を伝った。ガンジーのこのメッセージは是非、映画をご覧になってご確認ください。本当に素晴らしい映画です。