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伊藤若冲の「象鯨図屏風」

2024-08-28 20:47:10 | 日記
 前回の雪舟伝説の話で、長谷川等伯や雲谷等顔と共に伊藤若冲についても書いた。今回はその伊藤若冲の「象鯨図屏風」がテーマである。この絵は1795年頃に完成しており、若冲の没年が1800年だったことを考慮すると、彼の創造における技巧や感性はその円熟の極みに達している。謂わばこの偉大な絵師の仕事が集大成の域に入り、気宇壮大な画面に結実した魅力に溢れているのだ。大海原を背景にして、鯨と象という巨大な動物を左右に配した空間構成も実に見事だが、描かれた海の鯨と陸の象の姿は共に存在感が抜群である。しかも好対照の妙も冴えており、その独特な構図は何かを象徴している趣きさえ感じられる。

 特に「象鯨図屏風」の制作期間が、京の石峯寺の庵に若冲が隠棲して以降であったことを踏まえると、やはり仏教の信仰心が創造の礎にあるように思えるのだ。また彼自身も58歳の時に黄檗宗に帰依し出家しており、雪舟のように幼少期から僧の身ではなかったが、かなり信心深い仏教観を持っていたはずである。それはこの屏風絵の大作で、象と鯨を描く対象に選んでいることからも理解できる。実は象と鯨が同じ空間に描かれた絵は、若冲の「象鯨図屏風」が美術史上で唯一無二というわけではない。仏教美術において象と鯨が一緒に登場する作品は古くから存在する。それは絵画だと涅槃図とよばれるものだ。

 涅槃図とは釈迦の入滅の光景を荘厳に描いた絵である。沙羅双樹の下で静かに横たわる仏教の始祖の釈迦の死に際し、弟子や信者の人々だけではなく、人間以外の動植物の多くも集う大団円が表現されている。鯨や魚たちは海から画面中央の釈迦へ視線を注ぎ、陸の象は長い鼻を伸ばして天を指し嘆いているわけだが、この釈迦の生涯最期の場面には、当然のこと深い悲しみも漂っていながら、むしろそんな悲壮感を超えた優しい光に包まれているような安息と悟りの境地を感じさせる。そして巨大生物である鯨と象は、此処では重要な役割を象徴的に果たしているようだ。それは強く大きな勢力が、謙虚に仏の教えを受容している姿として描かれたということである。つまりこの絵の世界では、動物たちは食うか食われるかという弱肉強食の食物連鎖からも逸脱し、争う理由もなく平和に共存しているのだ。そしてそれは人間も植物も含めてである。

 恐らく伊藤若冲は「象鯨図屏風」の制作において、涅槃図を幾許か参考にしたであろう。これは容易に想像できる。それゆえ、象と鯨は涅槃図と同様に象徴的な意味を持つ。ここで今一度「象鯨図屏風」を注視して頂きたい。まず右側の象の表情はその目を見れば一目瞭然で、実に微笑ましく機嫌が良さげである。しかし象の体勢は陸の王者として誇り高く天を仰いでいながら、行儀良く膝を丸めている。一方、左側の鯨は波打つ海面に阻まれてその全貌が掴めない。しかし広い背から吹き上がる潮は、象の長い鼻よりも遥かに天高く舞い上がっており、それは絵の画面から噴水のような潮がはみ出していることからも明白だ。

 これは随分と個人的な見解になってしまうかもしれないが、象は幕府の勢力を象徴しており、それに対する鯨は反幕府の勢力を象徴しているのではないか。多分、鯨は海外からの脅威と、幕府に制御されている朝廷の権威であろう。これは江戸幕府以前の室町幕府や鎌倉幕府が崩壊した要因でもあった。鎌倉幕府は元寇と建武の新政を目指した倒幕により滅んだ。また室町幕府も大航海地代の南蛮貿易と、その影響でポルトガル王国やスペイン帝国から最新の銃火器が輸入されてエスカレートした戦国乱世により崩壊している。そして鎌倉幕府のような軍事力による倒幕は起きなかったが、最後の将軍の足利義昭が将軍職を関白の豊臣秀吉からの要請で、朝廷に返上して室町幕府は名実共に消滅した。

 古希を過ぎた晩年に至り、この「象鯨図屏風」を制作することで、伊藤若冲もまた雪舟や長谷川等伯のように、社会や為政者たちに向けて、絵の世界から警鐘を鳴らしたくなったのかもしれない。少なくとも鑑賞する限りにおいて、そうした解釈は可能である。無論、雪舟や等伯が生きていた時代とは違い、若冲の84年の生涯は江戸時代のほぼ中期、つまり乱世とは無縁の時の流れに収まる。ところが江戸時代中期を厳密に定義すると、若冲の晩年は江戸時代後期に入っていた。恐らく19世紀を目前にして人生の幕を閉じた若冲は、江戸幕府の終わりの始まりを告げる鐘の音を聴いていたようにも思えるのだ。かつての鎌倉幕府や室町幕府と同じく、やがて遠からず江戸幕府にも終焉は訪れるであろうと。

 しかし伊藤若冲は江戸幕府が何れ滅びを迎えるにしても、幕府崩壊に連鎖した南北朝の動乱や戦国乱世のような軍事的カタストロフを予知していたようには思えない。少なくともこの「象鯨図屏風」には、そこまでの不穏な空気は感じられない。むしろ涅槃図からの影響を受けて、陸の王者と海の王者が敵対して争うのではなく、融和し共生する姿を描こうとしたのではないか。私がこの絵を鑑賞したのは、2015年に東京のサントリー美術館を訪れた時だが、視界が捉えた第一印象では、鯨と象の鳴き声が協奏して聞こえてくるほどに和んだ雰囲気が伝わってきた。そしてゆっくりと近づいたり離れたりしながら絵を暫し目で味わっても、その印象は消えなかった。やはりこの絵は平和を希求した作品である。

 仮にそこに一抹の不安を感じるとすれば、それは鯨の表情が海に隠れている為、象よりも体が大きいその鯨が、想像を遥かに超えた未知の神秘性や潜在力を有していることだ。そしてこれは「象鯨図屏風」が完成した約半世紀後に日本列島を揺るがす幕末動乱を、知る術もない伊藤若冲が最も恐れていた予感であろう。記録に残っている若冲の人物像は、外界との接触を嫌い、諍いに巻き込まれることを避けるタイプであったといわれている。40歳で隠居したのだから、流石に納得できる評価だ。しかし現代だと商社に該当する青物問屋の家業を弟に譲っても、完全な世捨て人にはならなかったようである。実際、弟を含めた家族が営む家業を町年寄として若冲がサポートしていたことが史実として判明している。

 また江戸時代に、首都の江戸ほど巨大な人口を要せずとも、伊藤若冲が長く暮らした京は、商業都市の大坂に隣接した工業都市であった。謂わば江戸と大坂と京は、それぞれ政治と商業と工業の中心地として三都と称され栄えていた。しかし京と大坂は天領となる幕府の直轄地であった為に、幕府に遠隔支配された大名が統治する他藩のような地方分権的な自由度が低かった。それゆえ幕府から派遣された役人の圧力が強く、これに付随して汚職や利権が絡んだトラブルも横行していたようである。どうも若冲が早々と隠居した理由は画業に専念したかっただけではなく、職場環境も含めた地域社会からのストレスも多分にあったのではないか。

 そして青物問屋の周縁の問題発見と問題解決に際し、家業から引退し一歩退いた立場から、緩衝地帯のアドバイザーのようにして事に当たる形を伊藤若冲自身が望んだのかもしれない。なぜなら生家の青物問屋の家業も、絵師の経済的基盤を支えていたからである。事実、伊藤若冲の作品の多くは、保存性に優れた高価な絵の具の使用が確認できる。それゆえ若冲の絵は、江戸時代の作品とは思えないほど色鮮やかなものが多い。尤も「象鯨図屏風」の制作期間は、天明の大火という大惨事で京の都市の大半が焼け野原になった後のことだ。この忌まわしい人災で若冲は晩年になり経済的境遇は大幅にトーンダウンするのだが、石峯寺に隠棲して落ち着いた辺り、実はここからが真の隠居であったのかもしれない。還暦近くで出家している若冲にすれば、天明の大火によって気が動転することはなかったはずだが、困窮する人々を間近で目にし、被災地に当事者として彼も立っていたことを鑑みると、この大きな災厄が「象鯨図屏風」を創造する動機になった可能性はある。

 今回紹介している画像は、画集を開いた状態で撮影しており、多少歪んでしまって申し訳ないのだが、先に述べたように大画面で左右に配された2つの巨体、黒い鯨と白い象はこれから戦闘態勢に入るようには、やはり全く見えない。鯨と象の同居という到底あり得ないような組み合わせが、海と陸の境界で出会い、互いの存在を認めて呼応している。そんなユーモラスな光景であり、動植物が好きで、争い事が嫌いな伊藤若冲でしか創造できない世界が現出している。しかしながら皮肉なことに現実の歴史は、この「象鯨図屏風」の絵をグロテスクに変形させたような様相となった。若冲が鬼籍に入って約半世紀後に黒船が来航し、それと連動して倒幕運動が巻き起こり、江戸幕府は音を立てて崩壊に向かう。軍事的なカタストロフは幕末維新以降にエスカレートし、近代国家の大日本帝国の誕生と共に、日本列島から大陸へと帝国主義による海外侵略が始まった。もし伊藤若冲がこの史実を時空を超えて知ったとしたら、悲嘆にくれることは間違いなかろう。
コメント (1)
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