帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (249)吹くからに秋の草木のしほるれば

2017-07-10 20:17:30 | 古典

            


                        帯と
けの古今和歌集

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下 巻頭の1首(249

 

是貞親王家歌合の歌             文屋康秀

吹くからに秋の草木のしほるれば むべ山かぜをあらしといふらむ

是貞親王家(寛平の御時、宇多天皇と御兄弟のお方の家)の歌合の歌。  文屋のやすひで

(吹くとともに、秋の草木が、しおれるので、なるほどそれで、山風を嵐というのだろう……心に吹けば、たちまち飽きの女と男が、萎え・肢折れるので、なるほどそれで、山ばの心風を、荒らしというのだろう)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「秋…飽き(飽き満ち足り)…厭き(気が進まない・あきあきする)」「草…言の心は女…ぬえ草の女・若草の妻と古事記に用いられた時、既に、草の言の心は女」「木…言の心は男…梅も桜も柳もみな男、ただし、松(待つ)は例外で女、土佐日記をそのつもりで読み直せば、心得ることができる」「山…山ば…感情などの高まった処」「風…秋風…心に吹くあき風」「あらし…嵐…荒らし…山ばの荒々しい心風」。

 

吹くとたちまち、秋の草木が萎れるので、なるほどそれで、山おろしの風を、嵐というのだろう。――歌の清げな姿(良き衣を着た姿)。

心に吹くとすぐ、飽きの女と男が、萎え肢折れるので、なるほどそれで、山ばの心風を、荒らしというのだろう。――心におかしきところ。

 

文屋康秀の歌についての、仮名序にある批評は「言葉巧みにて、そのさま、身に負はず。言はば、あき人の良き衣着たらむがごとし」とある。真名序には「文淋、巧詠物、而首尾停滞、如買人之鮮衣」とある。

平安人とほぼ同じ解釈が、歌の正当な解釈であり、この批評が納得できる解釈があるはずである。

 

「歌の清げな姿」こそ、歌に着せられた鮮衣(良き衣)である。少年の発想のような純真無垢な秋の風情の描写。

そのさま(その様子・巧詠物)は、身に負はず(中身に相応しくない)。中身の「心におかしきところ」は、性愛の山ばで、荒々しくも激しく心に吹く風を、なるほど、それで山ばの心風を嵐というのだろうと納得するところにある。歌合に出席の人々は、失笑するとともに心和むだろう。「心深い」ところのない歌で、「優れた歌」からは程遠いのだろう。みすぼらしいはずの買人(商人・物売り)が、鮮衣を着ているような歌だという。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)

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