帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (256)秋風の吹きにし日よりをとは山

2017-07-30 19:23:19 | 古典

            

 

                        帯とけの古今和歌集

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現である。それは、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、秘伝は埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下256

 

石山にまうでける時、音羽山のもみぢを見てよめる

  貫  

秋風の吹きにし日よりをとは山 みねの梢も色づきにけり

(石山寺に参詣した時、音羽山の紅葉を見て詠んだと思われる・歌……女、山ばに、参った時、おと端山ばの厭き色を見て、詠んだらしい・歌) つらゆき

(秋風が吹いた日より、音羽山の峰の木々の梢も、秋色に色付いたことよ……厭き風が心に吹いたころより、おと端の山ばの、身根の小枝は、色尽きたことよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

 「石…石・岩・磯などの言の心は女」「まうづ…詣でる…参上する…ゆくの謙譲語」「をとは山…音羽山…山の名…名は戯れる…をと端山…おとこの山ば」。

「秋…季節の秋…飽き…厭き」「木…言の心は男」「風…季節風…心に吹く風…飽き風など」「みね…峰…頂上…絶頂…身根…おとこ」「梢…木の小枝…男の身の小枝…おとこ」「も…もまた…或る事柄にもう一つ追加する意を表す…意味を強め詠嘆する意を表す」「色づく…色付く…色尽く…色情尽きる」「色…色彩…色情…色欲」。

 

秋風が吹いた日より、音羽山の峰の梢も、秋の色彩に色付いたことよ。(季節の移ろいを表現した歌と思われる)。――歌の清げな姿。

厭き風が心に吹いたときより、おと端の山ばの、身根の小枝はなあ、もう、色尽きていたことよ。――心におかしきところ。(これこそが歌の真髄であり、歌が恋しくなるもとである)

 

この歌は、仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を得たらん人は、大空の月を見るが如くに、古を仰ぎて、今を恋ひざらめかも」と記した紀貫之の歌である。「言の心」とは字義以外に、その時代の歌の文脈で歌言葉の孕んでいた意味である。用いられ方から心得るしかない。 

紀貫之は「歌を多重の意味を表す様式であると知り、歌言葉の言の心を心得る人は、古歌を仰ぎ見て、歌の真髄がわかり、今の歌が恋しくなるであろう」と、述べたのである。

 

国文学は、歌の表現様式を一義なものとばかり思い、「ことの心」を「事の心」と読み、「言の心」を心得ず、歌の「心におかしきところ」がわからず、古典和歌の解釈は、歌の真髄から遠く離れているのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)