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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。
歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (250)
(是貞親王家歌合の歌) (文屋康秀)
草も木も色はかはれどもわたつ海の 浪の花にぞ秋なかりける
(是貞親王家(寛平の御時、宇多天皇と御兄弟のお方の家)の歌合の歌。文屋のやすひで)
(草も木も色はかわるけれども、あの海の浪の花には、秋はなかったことよ……女も男も、飽きに・色情変わるけれども、綿のおんなの、汝身の端には、厭きはなかったなあ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「草…言の心は女」「木…言の心は男」「色…色彩…色情」「わたつ海…綿の女…海の言の心は女…やわ肌のおんな」「浪…なみ…汝身…女の身」「花…はな…端…身の端」「秋…季節の秋…飽き…厭き…気が進まない」「ける…けり…感動・詠嘆を表す」。
草も木も秋になれば、色彩が変わるけれども、海浪の花には秋はなかったなあ。――歌の清げな姿(歌に着せた鮮衣)。
女も男も飽きに色情は変わるけれども、やわ肌の女の汝身の端には、厭きはなかったなあ。――心におかしきところ。深い心は無い。
このように解釈すれば、文屋康秀の歌についての仮名序と真名序の批評が理解できるだろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)