帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (252)霧立て雁ぞなくなる片岡の

2017-07-13 19:20:16 | 古典

            


                         帯と
けの古今和歌集

                        ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下252

 

題しらず         よみ人しらず

霧立て雁ぞなくなる片岡の 朝の原はもみぢしぬらむ

(題知らず)         (読み人知らず・女の歌として聞く)

(霧が立って雁が鳴いているようね、片岡の朝の原は、紅葉してしまったでしょう……限り、断ちて、かりが無くなる、不満足なおとこの山ばの、浅の腹のうちは、も見じ、してしまったようねえ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「霧…きり…限…限度」「立て…たちて…たちこめて…断ちて…絶ちて」「雁…かり…刈り・狩り…めとり…まぐあい」「なくなる…鳴くなる…鳴いているようだ…無くなる」「片岡…不満足な山ば…片側は涯になっていて急激に落ち込むおとこの山ば」「朝…あした…あさ…浅…あさはか…薄情」「原…はら…腹…腹の内…内心」「もみぢ…秋の色…厭きの気色…も見じ…もう見たくない」「見…覯…媾…まぐあい」「じ…打消しの意志を表す」「しぬ…してしまった…死ぬ…逝く」「ぬ…完了した意を表す」「らむ…推量を表す」。

 

霧たちこめて、雁が鳴いているのが聞こえる、片岡山の朝の原は、今頃・紅葉したでしょう。――歌の清げな姿。

これっ限りとなって、「かり」は無くなる、片おか山ばの浅はかなおとこの腹のうちは、も見じ、してしまったようねえ。――心におかしきところ。

 

よみ人しらずの歌が三首並べられてある。いずれも、宮廷の女官・女房たちが歌合の為に匿名で詠んだ歌と推定する。

その一首目は、おとこの性(さが)のはかなさを、心におかしく表現した歌のようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (251)もみぢせぬときはの山は吹風の

2017-07-12 19:06:45 | 古典

            


                          帯と
けの古今和歌集

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下251

 

秋の歌合しける時によめる       紀淑望

もみぢせぬときはの山は吹風の をとにや秋をききわたる覧

(秋の歌合した時に詠んだと思われる・歌……あきという題で歌合した時に詠んだらしい・歌) 紀のよしもち(真名序の作者)

(紅葉しない常磐の山は、吹く風の音に、季節の・秋を聞き知っているのだろうか……も見じしない・厭きない、常磐の山ばは、吹く心風のおとにかな、おとこの・厭きを感じつつ、見ると・乱れているだろう)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「もみぢ…秋の木の葉の色…厭きの色情…も見じ(もう見ない)」「見…覯…媾…まぐあい」「ときは…常磐…常と変りなし…盤石の」「石・岩の言の心は女」「山…山ば」「風…心に吹く風…厭き風など」「をと…音…おと(こ)」「秋…飽き…厭き…もう見ない…気が進まない」「きき…聞き…感じ」「覧…見…覯…まぐあう…らん…らむ…だろう(推量を表す)…乱…乱れる」。

 

紅葉しない常緑の山は、吹く風の音に、秋を感じているのだろうか。――歌の清げな姿(歌に着せた鮮衣)。

も見じしない・厭きを知らない、常磐の・おんなの山ばは、おとこに厭きを感じ続けるだろう・みだれて・まだ見ると。――心におかしきところ。

 

「女の身の端には、厭きはなかったなあ」という文屋康秀の歌の趣旨をそまま、別の視点と表現で女の性(さが)を詠んだ歌である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (250)草も木も色はかはれどもわたつみの

2017-07-11 19:08:21 | 古典

            


                        帯と
けの古今和歌集

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下250

 

(是貞親王家歌合の歌)             (文屋康秀)

草も木も色はかはれどもわたつ海の 浪の花にぞ秋なかりける

(是貞親王家(寛平の御時、宇多天皇と御兄弟のお方の家)の歌合の歌。文屋のやすひで)

(草も木も色はかわるけれども、あの海の浪の花には、秋はなかったことよ……女も男も、飽きに・色情変わるけれども、綿のおんなの、汝身の端には、厭きはなかったなあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「草…言の心は女」「木…言の心は男」「色…色彩…色情」「わたつ海…綿の女…海の言の心は女…やわ肌のおんな」「浪…なみ…汝身…女の身」「花…はな…端…身の端」「秋…季節の秋…飽き…厭き…気が進まない」「ける…けり…感動・詠嘆を表す」。

 

草も木も秋になれば、色彩が変わるけれども、海浪の花には秋はなかったなあ。――歌の清げな姿(歌に着せた鮮衣)。

女も男も飽きに色情は変わるけれども、やわ肌の女の汝身の端には、厭きはなかったなあ。――心におかしきところ。深い心は無い。


 このように解釈すれば、文屋康秀の歌についての仮名序と真名序の批評が理解できるだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (249)吹くからに秋の草木のしほるれば

2017-07-10 20:17:30 | 古典

            


                        帯と
けの古今和歌集

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下 巻頭の1首(249

 

是貞親王家歌合の歌             文屋康秀

吹くからに秋の草木のしほるれば むべ山かぜをあらしといふらむ

是貞親王家(寛平の御時、宇多天皇と御兄弟のお方の家)の歌合の歌。  文屋のやすひで

(吹くとともに、秋の草木が、しおれるので、なるほどそれで、山風を嵐というのだろう……心に吹けば、たちまち飽きの女と男が、萎え・肢折れるので、なるほどそれで、山ばの心風を、荒らしというのだろう)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「秋…飽き(飽き満ち足り)…厭き(気が進まない・あきあきする)」「草…言の心は女…ぬえ草の女・若草の妻と古事記に用いられた時、既に、草の言の心は女」「木…言の心は男…梅も桜も柳もみな男、ただし、松(待つ)は例外で女、土佐日記をそのつもりで読み直せば、心得ることができる」「山…山ば…感情などの高まった処」「風…秋風…心に吹くあき風」「あらし…嵐…荒らし…山ばの荒々しい心風」。

 

吹くとたちまち、秋の草木が萎れるので、なるほどそれで、山おろしの風を、嵐というのだろう。――歌の清げな姿(良き衣を着た姿)。

心に吹くとすぐ、飽きの女と男が、萎え肢折れるので、なるほどそれで、山ばの心風を、荒らしというのだろう。――心におかしきところ。

 

文屋康秀の歌についての、仮名序にある批評は「言葉巧みにて、そのさま、身に負はず。言はば、あき人の良き衣着たらむがごとし」とある。真名序には「文淋、巧詠物、而首尾停滞、如買人之鮮衣」とある。

平安人とほぼ同じ解釈が、歌の正当な解釈であり、この批評が納得できる解釈があるはずである。

 

「歌の清げな姿」こそ、歌に着せられた鮮衣(良き衣)である。少年の発想のような純真無垢な秋の風情の描写。

そのさま(その様子・巧詠物)は、身に負はず(中身に相応しくない)。中身の「心におかしきところ」は、性愛の山ばで、荒々しくも激しく心に吹く風を、なるほど、それで山ばの心風を嵐というのだろうと納得するところにある。歌合に出席の人々は、失笑するとともに心和むだろう。「心深い」ところのない歌で、「優れた歌」からは程遠いのだろう。みすぼらしいはずの買人(商人・物売り)が、鮮衣を着ているような歌だという。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)

 本日より、新規投稿再開します。