ネコのヒトビト

ネコにまつわるヒトビトについてのお話等

いわれなき差別

2021-07-25 12:54:13 | 思ったこと
よく、人種差別という。
在日だとか、
外国人だとか
あるいは
性差別だとか
LGBTだとか。

でも、
日本人同士でも差別はある。

よそ者だとか、
なんらかのグループに属していないとか、
住む地域の差別
つかう言葉
つきあう人
職業差別
その種類は多様だ。

ただ、被差別をなんらかの手段に使うということは
通常ない。

被差別を叫ぶ人の、意図がどこにあるかをみなければいけない。

なにかの利得を得るために、利用しているのか
それとも
差別を本当になくそうとしているのか。

差別がなくとも、小さなことをきっかけに差別を唱える人々がいる。
そこには、なんらかの利得が計算されている。
動員をかけられている人もいる。
お金をもらって集会やデモに参加する人もいる。

そういうことを見抜くことが出来るか、できないかで
世界の見方がかわってくる。

猫の殺処分ゼロについて

2021-07-25 09:41:23 | 猫嫌い
猫を飼い始めた頃、戸惑ったのは
「猫は家の中で飼おう」というのが、スタンダードになっていたこと。
昔は
猫は家の外に出て行ったり、家の中に居たり、
知らない間に死んでいたり、という自由で、
ある程度人間と距離をもった存在だと思っていた
それが、
知らぬまに 猫を飼うということに厳しいルールがしかれ
猫を飼っている人々により
「猫を飼うなら、繁殖させてはいけない」とか
そんな餌を食べさせてとか、
可愛いペットの画像をアップしたり、漫画に描くにせよ
配慮しないと炎上してしまうような時代に突入していた。

餌やりの人々は、酷い人たちであり、
猫は 去勢しないと 野に放たれることを許されない時代になっていた。

人々は、猫を滅ぼしたいのだろうか?

一匹残らず、虚勢して、野良猫を撲滅して 管理することが
解決の道なのだろうか?

それとも、誰かが気に入った遺伝的に優れたもの(いわゆる優生学)と
認められた猫だけが繁殖を許される、猫における超管理 超監視社会を人間に先立っておこなうことが望まれているのだろうか?


猫は減らない?
猫は 減っている?
どちら?

そして
野良犬はほぼいない。

人間も、そのうち繁殖行為を管理・監視されるのだろうか?

善意で生きようと思う

2021-07-25 09:27:43 | 思ったこと
私のことについてちょっと語ろうと思う

子供の頃から、どうにも人間社会には馴染めなかった
なぜ、自分がこれだけ虐められるのか、わからなかった。
人々になぜ蔑まれるのか、わからなかった。
未だわからない。
どこか、侮蔑をふくんだ感情を向けられてきた。
そんな中でも、どうにかして、人となじもうと努力した
こんなことを言えば、気に入ってもらえるだろうか
どんな態度で接したら、受け入れてもらえるだろうか?
頭が痛くなるほど考えて、行動を選んだ
それでも、なにも報われなかった。

自分が徹夜してまで表現した作品はビリビリに破られたり
踏みにじられていた。
なにをしようが、どう話そうが、どこかが人間社会に馴染めないのだ
それは、どこまでも続く茨の道だった。

人の家に嫁ぎ、嫁としてできる限りのことをした
それでも、根底には侮蔑があったことを
別れの頃 初めて知った。

私に対する侮蔑は、どこから生じるのか 私はわからない。
なぜ、人を侮蔑し、どうでもいいという扱いをする一方で
誰かに媚び諂うのか、嘘をついてまで合わせようとするのか
それもわからない。

人から嫌われながら、人と接する仕事についたとき
初めて 人の役に立つ喜びを得た。そして、人から受け入れられる喜びを得た。

私は人が好きである。
あの時、なにげなく受け入れられた喜びだけで生きている。
その人と接したのはそんなに多くはないけれど、
その時の心のじんわりしたあたたかさを今でも抱いている。
名前もしらない その人。

道が分かれていった人、
分かり合えなかった人
それでも
私は 心の中で感謝している。
かたちにできない相手もいる
どうしても、連絡とれない相手もいる。

自分のために、自分の心のために感謝する。
心の中で、感謝している。

いずれ、私は死ぬし、その時どんなふうになるか
思いもよらない。

ただ、できるだけ、 善意で生きられたら、と 思う
善意で、生きられたら、と思う。

想いを奪われる人たち

2021-07-25 08:23:46 | 思ったこと
限られた空間と情報の中で
私たちは想いの元になるタネを奪われ続けている。

テレビ・パソコン・スマホ・SNS
次々に現れる情報に右往左往して、誰もが自分の判断力を失いかけている。
制限された空間の中で
決まり切った情報を、繰り返し伝えられる中
決まり切った動作・同じ動作の繰り返しのなかで
人間の可能性の範囲を狭められていることに気づかない。

もっと土にさわり
もっと道具を動かし
もっと想像を創造にかえて
生きていくことが
我々にはできるはずなのだ

なのに、
たった一つの感染症のことで身動きが取れないように
情報統制されそれに従っている。

以前も書いたが、
これは戦争作戦である

悲しいことだが、日本人の大半がこの作戦の禍に巻き込まれてしまい
独自の判断力を失ってしまった。



最近、遺伝子コロナワクチンが「自身の中の神との接続を断ち切る方法」が漠然とわかってきた感じがしています。
「自身の中の神」とか言うと大仰ですが、要するに「趣味」とか「興味」とかのことです。これらは、普通の人生には大事でも、唯物論的社会には何の意味もないことです。
「何となく花を見てきれいだと思う」
とか、
「聞こえた音を、何となくきれいだと思う」
とかです。
これらの「人の感性」を「人から剥奪する具体的な方法」が、最近なんとなくわかってきました。
こんな難しそうなことも、現在の技術ならやればできそうなんです。
でも、コワイことなので書くことはできないと思います。
だって、すでに何億人が遺伝子ワクチンを接種したと思われます?  日本でも何千万人になるのでしょうか。その方々のことを考えると、書けないです。
ですので、こういう話は、どこまでもオカルトでありフェイクであるということでいいのではないでしょうか。

美しい思想や、創造性、芸術を感じる心まで
奪われてしまうのか、
それだけの効果があの薬剤にあるのかなど私にはわからない。

しかし、
この薬剤を摂るか、やめるかという
ところに働くべき 想像力が、あまりにも働かないことは
いずれにせよ
どこかでもうすでに制御されている。
なにかが効いてしまっているのだ。

考えれば、ずっと以前から 人々は家畜だった。

病気になって 病院に行き そして、施設へ収容されていく

私の叔母は、薬を飲み、歩けなくされて、施設に閉じ込められた
娘に医師は「任せておきなさい」と言ったという。

昔はどうとも思わなかった。
それが、異常なのだ。
人が、その人が生きるべき空間から隔離され、
収容され、白い壁ばかりのところで 死んでいく。
慣れ親しんだところに生き続ける権利が存在しない。

権利を奪われるのに、徐々に慣らされてきた。
そして、今は
自分が摂るべき薬剤を選択する権利さえ 手放してしまった。

日本人は社会的な存在であるということを、
今になって認識した

どれだけ研究されつくしているか。
治験がすんでいないのではなく、
まことに用意周到に実行されているのだと考えると
背筋が凍る。

そんなことは現実化してほしくないと願う 日々である。

想いが現実を作り出す

2021-07-25 08:15:03 | 思ったこと
私の父の話をしよう。

子供の頃は、おそらく北朝鮮の子供がコッチェビと呼ばれているが、
それに近い生活状況だったと思われる。
極端な貧困に喘いでいた。
親戚がみるにみかねて、引き取ってくれ
初めて人間らしい生活を知る
その人生の始まりについて、そして、そのごの人生について
私が語れるほどに聞かされてきた。

無一文から、始まった人生の旅
どの人もそうなのだろう

生まれてすぐにお金はもっていないから。

今ものぞみを捨てていない
なにかをやってやろうという気持ちが渦巻いている。

この人を今まで突き動かしてきたのは、
あのひどい貧困と飢えの世界 そして人間としての尊厳を傷つけられ続けてきた
自分の誇り、自分の魂を、守るために
そして繋がる人々を守り、安心して生きられるように。
人を楽しませて、人を喜ばせる存在でありたい。
その願い
想いの強さ。

未だ、それが燻っている

想いの強さだけで、ここまでやってきた
想いの強さだけで、現実を形作ってきた。


人の現実をつくるのは、ひたすら想いなのである。
強い想いこそ、現実を創造する。