言葉は、取り消せないんだよね。
「とにかく打ってください」というのが本心だと思います。
そのあと
「理由があってうてないひとにたいする差別はゆるされないので
そういうことがないようにしてください」と
付け足したとしても
本心は「とにかく打ってください」です。
差別が起きるような号令をかけておいて、
差別をするな、と言っておいたからね、とは
自分を守る言葉にしか聞こえないんですよね。
そして
会社や学校に対して、「未摂取」(これから打つ、未の状態と言っているが、現時点で打たないひとは否接種で、もう打たないと意思表示しているのでは?)の
人へ「勧奨:つよく勧め」てください。
と
県知事の言葉はとても重くうけとられます。
現に、知り合いの人は、接種を拒否していたのですが、
勧奨され、どうも打ってしまったようです。
さて、
現実に、いま
接種後に亡くなっている人が存在します。
仕事ができないくらい、長期にわたる影響を受けているひと
人生が変わってしまったひと。
その人たちの症状や、現況が「接種との関連は 評価できない」と
言われている。でも「まったく関係がない」と断言されたわけではない。
恐ろしいと思うのが当たり前で、打たない選択をしたからといって
責められるものではありません。
そもそも、惑珍をうてば、感染拡大を抑えられるという触れ込みで
国民の8割以上が受けたというけれど、
今、未だかってないほどに感染拡大と「いわれています」
効果があったならこうならないのでは?
マクロン大統領が、クロアチアの議員に言われていた。
「惑珍接種を勧奨してください」
は
死刑台に送るのと一緒のことだと、
クロアチアの議員が言っていますよ。
言葉が過ぎた、とは
どういう意味でしょうか?
どこらへんが
「すぎた」のですか?
もっとはっきりと、
撤回してもらわないと。。
なんの意味ももたないのです。
「言葉がすぎた」だけでは。