土塊も襤褸も空へ昇り行く:北村虻曳

随想・定型短詩(短歌・俳句・川柳)・写真
2013/11/11開設

最大乗院の石仏群

2015-12-13 | フォト・エッセイ
<最大乗院の石仏群>


鹿児島でまだあまり知らないところを歩こうと、鹿児島駅から線路沿いに歩いた。しばらく行くと「南洲翁終焉之地」に出る。(南洲翁とはむろん西郷隆盛のこと。)




その手前を左に折れて鉄道を渡り南西に進むと低い塀の寺のようなものがある。ひっかかるものを感じて、塀の切れ目から境内に入った。入口近くに「高野山青々幼稚園」と書かれた門があり、門のすぐ後ろが簡易なフェンスとなっている。その先に建物があるが寺側からは寄りつけない。




そのフェンスの前の狭いスペースに、数多くの石像の仏が半ば放置されているのを見つけた。














低いものは蔦や草に覆われている。




西洋人のような顔の像もある。




「幼稚園」の反対側を振り返ると、そこにも仁王さんのようなものを含めて多くの像が並んでいた。毀たれたものが多くある。












次の像は雰囲気が宮崎アニメ『千と千尋の神隠し』のキャラクター「顔無し(カオナシ)」に似てませんか。





南東の端の入り口に近づくと、アーチの門があった。僕は気がつかなかったが、後に見た他のブログによると石造のアーチとあり、珍しい、手が込んだものなのだ。上部に「獅子」の文字を挟んで「吼」と「窟」とあるから「吼獅子窟」か「獅子吼窟」であるが、ネットの知識では後者となる。つまり「獅子窟は優れた僧を育てる禅の道場に例えられ、獅子吼は、仏の説法を指」すという。そういえば北河内の山中にも獅子窟寺というのがある。




この地はあまり一般の観光案内に載っていないようであるが、ただ事ではないと感じて帰って調べると、もとは「一乗院」と藩のトップを争う勢いの「大乗院」という真言宗の寺だったのだ。それが

「明治2年(1869)の廃仏毀釈により廃寺とされた後、ここ長田町に明治29年(1896)に高野山の説教所として再興されたものである。」
(鹿児島市の最大乗院を訪ねる)


そして名前が「最大乗院」になったらしい。この名にどういう意味が込められたかわからないが、数学を生業とするものには変な感じのする名前だ。後に同じく数学を生業とされるNKさんに教えていただいたが、鹿児島県は廃仏毀釈のもっとも激しいところであったという。案内書にあまり出てこないのは、そのしこりが残っているということであろうか。タリバーンやISによる破壊のようなもので、後世は格好が悪いと感じてのことか。
しかしこれだけでここに集められた仏像の由来がわかったわけではない。様式はとても多様であり、全き物も多い。一つの寺から集められたものではなく、壊された多くの寺などから集められたのではなかろうか。その数の多さのゆえにこうして並べる他はないのである。

しかしここももう少し広く興味を持たれてもいいのではないか。うち捨てられたり、毀たれたものにかえって完全性を見るという美学がある。たとえばビーナスの腕やサモトラケのニケの頭部を改めて制作し、美学的に完成させようという意欲を持つ人は少なそうだ。これらは、すでに神の一吹きが仕上げを行っているのだから。


最大乗院の歴史は例えば「鹿児島旅行ガイドブック」、
仁王の像の写真は「高野山最大乗院の仁王像
などを見られよ。

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