「これは死ぬまで変わらないと思う」とも。
2005年以降に書かれたこのエッセイは、彼女らしい美しいロマンチックな表現に満ちてます。
旅、料理、追憶、友人、猫など様々な話題に触れて、以前の恋愛小説を彷彿とさせます。
しかし、東日本大震災、両親の老いや死が全編に深く重く流れて、一味違った印象を受けるのです。
まさに「性と生と死」がかけ離れたものでない、隣り合わせる人生を感じさせるのです。
50代になって作者は、疎遠にしていた家族と嫌でも向き合わねばならぬ状況になりました。
それが父親の病いと死です。
その後に、青春時代を過ごした仙台を直撃した大震災が起きました。
その衝撃に息つぐ間もなく、介護状態になった母の世話が始まります。
今殆どの人が通らねばならぬ道を、彼女はその感じ易いが強靭な神経で耐えて歩いたのですね。
どれほどの苦痛があったか知れず、いっそ何も知りたくない、何も書きたくない、一日中ぼうっとしていたい、というのが人情でしょう(私はそういう気分になってしまいます)。
それでもなお彼女は果敢に書きます。
「人生は計算や合理性だけで成立しない」
「傷つくのではないか、という恐怖や、悲しみの予感もないときめきは、偽物である」
「もう会えなくなった愛おしい人々が、時折り再現する、その時間の中で私は生きる」
2019年の初秋、軽井沢の自宅でこのエッセイを振り返る彼女の言葉です。
ところがこの後、2020年1月、闘病中だった長年の伴侶藤田宜永との永遠の別れが待っていたのです。
「ただ今は寂しくて」という編集者に語ったという彼女の叫びが聞こえる様な気がします。
それでも、夫君の作品も、勿論彼女の作品も、生きてこの世に存在してます。
作家の青春も生命も永いのです。
再びの小池真理子さんを待ってます。