読書の森

昭和半ばの秋のこと その1



「いい加減にして!」
心の中で叫んで、美佐子は外に飛び出した。
火照った頬に秋の風が心地良かった。

休日の朝、些細な事から両親のいつもの口喧嘩が始まった。

その日は父の誕生日だった。
好物を揃えた食卓を見ても、無表情で食事する父に「好きな物ばかり作ったのよ。あなた私のこと愛してないのね」と絡む母。
「仕事で疲れてるんだ。黙れよ」と眉根に皺を寄せる父。
「こんなに一生懸命尽くしてるの分かんないの!」
母の声は1オクターブ高くなった。

そこから始まる両親の愛憎劇は、ひとりっ子の美佐子の存在を全く無視していた。

「あなたの言うこと嘘ばっかり。最初から間違っていた。結婚なんかしなきゃ良かった。美佐子がお腹に出来てしまったから。あの人と結婚しておけば、もっと幸せになれたのに」

いつも繰り返される母の文句が美佐子には自分への呪詛の様に思えた。

幼い頃は綺麗で自慢の母だったが、生活がやっと落ち着いてきた今、別人の様に憎らしいと感じる。
恐らく、母が昔の恋人と再会してから芽生えた憎しみなのだろう。

40近くなっても未だ娘気分の抜け切れない母志津子は、高校生の美佐子を友達扱いするところがあった。
昔の恋も父への不満も何もかもを美佐子に洗いざらい打ち明けたのである。

それは、思春期の美佐子にとって聞かせて欲しくない事ばっかだった。
結婚出来てるのに、何てわがままなんだろう。
父方の系統で美佐子は軽い斜視だった。
美人の母に比べる度、自分の容貌をひどく醜く感じた。

志津子はその悩みを理解していなかった。
ちょっとしたお洒落が好きで、外出好きだった。
街中を二人で歩くと「美しくて優しそうなお母様ね」と必ず知人が言った。
そして美佐子をチラッと見比べ、目を伏せるのである。
(それに比べて子供は見っともない)
そう言われてるみたいだと美佐子は感じてしまった。

美佐子と同じ劣等感を持つ父親と娘時代を忘れられない母のいさかいは、生々しい男女のそれの様で、美佐子にとって苦痛以外の何ものでも無かった。

男と女なんてひたすらおぞましく、気持ち悪い。

この涼しい風に吹かれて何処までも遠くに行ってしまいたい。
美佐子は古びた大型のショルダーを肩に下げ、普段着でふらりと電車に乗った。

美佐子は、ふと一年の時に同クラスだった佐木豊の事を思った。

豊は実家が栃木にある。
一流大学進学を目指して、伯父の家から都内の同じ高校に通っているのだ。

春に放課後の事、美佐子は直ぐに母の待つ家に帰るのが嫌でぶらぶら歩き回って、ぼんやりと映画館の前で佇んでいた事があった。
「おっ、河出じゃない。こんなとこで何してるんだ?」
声をかけたのが、部活帰りの佐木だった。

佐木は年齢の割に落ち着いて大人の表情をしていた。
大人の男性に声をかけられたように感じて美佐子は耳たぶまで赤くなった。

「あの、、何でもない、、」
「君、この看板よく見ろよ」
「何、それ」
「ほら!」

佐木のがっしりした手が指差した先に、薄着の女性が官能的な表情をした絵看板があった。
さらにその上に太い字で書かれた題名は「肉体の門」であった!

「ええ!嫌だ私」
佐木は咎める様な厳しい表情である。
急に美佐子は情け無さでいっぱいになった。
自分でも驚いた事に涙がポロポロ溢れてくるのだった。

今まで父親を始め男性の前で涙を見せた事のない彼女は、大して親しくもない佐木の前で本格的に泣いてしまったのである。

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