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読書の森

千代 その2

それから10年の月日が流れ、真由は初めて千代の話を聞く事が出来た。

その頃、真由の両親の仲に亀裂が入っていた。バブル崩壊の余波を受け、智の経営していた食品チエーンが倒産して、大きな負債を抱える事になったからである。
二代目お坊ちゃん社長の智はピンチに弱い男である。なす術もなく寝込んでしまった。

「なんてだらしない男だろう!会社の後始末をつける気概も借金取りを追い払う知恵もない!」
普段おっとりしているのに、緊急時に目覚ましい働きをしたのが敏恵である。
あれほど煩く口出ししていた伯母たちは財産確保した挙句、一切一家と無関係を決め込んでいた。
結果、妻である敏恵が孤軍奮闘した。
従業員全員が速やかに退職出来たのも、会社倒産の手続きが比較的早く出来たのも、全て彼女の力による。
しかし、その事によって敏恵の外面の良さと内面の悪さが明らかになった。
キビキビと後始末を済ませ、家事も片付けてはいるが、理不尽な運命に対する彼女の怒りは全て智と真由にぶっつけられた。

連日続く妻の怨嗟に智の男としての誇りは無残に崩れたらしい。萎れた青菜の如く影が薄い。
「そんな事言ったってお母さん!倒産は不景気が原因でしょう。お父さんのせいじゃない」
ボソボソ呟く真由の声も聞こえぬげに敏恵は愚痴った。

「同情するのは簡単よ。真由も何にも出来ない弱虫ね。河村の家は神経が弱い人ばかり。お千代さんが自殺したのもその為だわ」
「なあに?お千代さん自殺したの?」
「ええ、心を病んで」

真由の中で温めていた千代のロマンティックなイメージが崩れて、可哀いそうな精神病者の女性が彷徨う姿が浮かんだ。

大正12年、代々の土地持ちで造り酒屋、河村勝行の長女として生まれた千代は丈夫で利発な娘だった。
母志乃は絵に描いたような良妻賢母でしかも町内一の美貌を歌われた。勝行は山っ気の多い活動家で苦労が絶えなかったがじっと耐えて家内を取り仕切っていた。
その無理が祟ってか、千代が13歳の夏、志乃は胸の病いでこの世を去ってしまう。

愛妻を失った勝行の嘆きは一通りでなかったが、一家を取り仕切る為に周りから後妻を勧められたのである。

そこで嫁に来たのが香夜である。香夜は外面も内面も極めて男勝りの女で、店の帳簿付や家内の取り仕切った。
頭の上がらぬ妻から逃げる為に勝行は付き合いと称してせっせと遊興に励んだ。そのくせ二人の間は一男三女に恵まれたのである。

千代は「俗っ気の強い」継母を嫌い抜いた。親切心で香夜が贈った飾り物をこっそり捨てて、亡母の着物を身につけ亡母の櫛を髪飾りとした。勝行は志乃に生き写しの千代を溺愛している。
しかしながら、千代は猥雑に変化した(と感じる)家から逃げ出したくて仕方ない。

そんな時、千代は店の客の時田陽造と言う米問屋の息子から恋文をもらったのである。
陽造は堂々たる体躯の男らしい若者だった。町内一の商業高校を出た後、大学進学はせずに家業に励んでいた。その恋文は如何にもそっけないもので、「会って話したい事がある。落ち合う場所はXX」と言う趣旨が記してあるだけだった。

その一回の逢引きで千代は女になってまったのである。



時田は初心な千代を溺愛した。そして勝行に結婚の許しを乞うたのである。

勝行は激怒した。
掌中の珠である娘を汚した不届きな輩である。
いずれ学士で家柄の息子と娶せ、智ではなくその婿に店を継がせるつもりだったからだ。
それが学士でもない、成り上がりの息子と、いわば出来あってしまった。

目の前で這いつくばる図体のやたら大きい男が許せない、と勝行は怒りが込み上げるばかりである。
この申し込みは不気味な睨み合いで終わった。

そしてその2日後の夜半、千代は家を飛び出して、約束の場所で待ち受ける陽造の胸の中に逃げ込んだのである。

地縁の強い土地柄故良からぬ噂が立つ前に、間に立つ人の世話で千代は正式に時田家の嫁となった。
それでも「駆け落ち婚」などと面白おかしく言い囃す人はいた。
千代は広大な時田の屋敷の中でひっそり暮らし始めた。




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