日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック 

2017-03-17 18:52:01 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(403)     近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その43)

 28.ではなにゆえに、神は敵が貞節な者をこのように取り扱うのを許されたのか。      キリストにある忠実な 

     者たちよ。たとえ敵が

あなたがたの貞節を慰めものにしたからと言って、生きることを重荷に感じてはならない。あなたがたに対して

悪行を犯すことを許された者の罪に、(前回はここまで)あなたがたは同意しなかったことを良心のうちに知っ

ているからには、あなたがたは真に大きな慰めを得ているのである。なぜ彼らがそのようなことを許されたのか

と尋ねるならば、あなたは世界の創造主で統治者である方の、すべてを支配する深い摂理を想起しなければ

ならない。「神のさばきはいかに窮めがたく、その道は測りがたいことであろうか」(ローマ一一・三三)。あなた

自身の魂を忠実に調べてみるがよい。あなたは処女や貞節や慎みを保つ美徳を理由として、いくらかでも誇り

高ぶったことがないだろうか。こうした理由で友人たちの賞賛を受けて喜び、他人を軽蔑したりすることがな

かったであろうか。

  わたしは事情も知らずに咎め立てしようとは思わないし、あなたの良心がこれらの問いにどう答えるかもわか

らない。しかしながら、もしも肯定的に答えねばならない場合には、あなたが人を喜ばせる力があるとして大切

に考えていたものを失い、人々の目には見えないものを持ち続けたからと言って驚いてはならない。

  他方、自分の貞節を決して誇ったことがないと信じている (つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-03-17 18:49:31 | 大分中央ウィークリー

創世記24章26節である。「彼はひざまずいて主を伏し拝み、」とある。彼、アブラハムの僕は、姿勢を正して

祈ったのである。礼拝で牧師が祝祷をささげるとき、大方の牧師は手を上げて祝祷する。祭司「アロンは手を

上げて民を祝福した」(レビ9・22)によっていると思われる。ここでは「彼はひざまずいて主を伏し拝み、」と。わ

たしたちにも祈りの時の姿勢があるとすれば、ここの「ひざまずいて」なのかも知れない。

 

とにかく、彼は事態の成り行きにあまりにも彼が祈った通りで、近くにいます神の御存在に気づき、畏れをなし

たのであろう。祈りの時、実際にはどんな姿勢でもいいが、もし姿勢を低くすることによって心が低くなれば、こ

の姿勢が役に立つ。

 

27節である。「『主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れ

ず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました。』と祈った。」という。祈りの内

容についてであるが、「主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、」という。彼の1000キロにも及ぶ旅路の

無事であったことはもとより、目的地でリベカに出合ったことをも含めて、それらは「主の慈しみ(「ヘセド」)とま

こと(「エメス」)はわたしの主人を離れず、」といって感謝している。

 

それは旅路のすべてが、主人の神のご計画の実現の確認である。「主人の一族の家」の「一族」は「関係者・親

族(「エヘー」強調複数)」。アブラハムの兄弟ナホルの八人の子を含む一族。ナホルの孫がリベカであった。

従って「主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」との言葉には、ご計画の確実性への僕の驚きがあ

る。


牧 会 通 信

2017-03-17 18:44:43 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 16歌(カッコ内は筆子、その5)

◯わたしらの名声にそなたの心を曲げて、そのやうに安全に生きた足をひきずつて地獄を行く、そなたが誰か言つてほしい。

  わたしが足跡を踏みつけていくこのものは、まる裸で皮がむけているが、そなたが思つているよりも身分が高く、

優れたクァルドラダ(フィレンツェの名門「ラヴィニアーニ」家)の孫だつた、名はグイド・グエッラ(フィレンツェで1

272年死去)で、生きてゐたときに知恵と剣でかなりの働きをした、(前回ここまで)

◯わたしにつづいて砂を麦打ち踏みつけるものは、テギアイオ・アルドブランディ(フィレンツェの名門アディ

マーリ家の出であり当時著名な武人1266年死去)で、その声は上の世界で歓迎されて然るべきだった。

一緒に責苦を受けてゐるわたしは、ヤコボ・ルスティックッチ(13世紀半ばの人)で、たしかになににもまして手

に負へぬ悪妻によつて害はれたのだ。」

火からずつと守られてゐるなら、わたしは三人の間に跳び下りただらう、師もたしかにそれを許しただらう、(つづく)

 

◯本日、3月12日の日聖協の「聖書愛読こよみ」の主題は、「新しい契約」とする。聖書はヘブライ9・11~1

5、その14節「まして、永遠の〝霊〟によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血

は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでし

ょうか。」と。人が「生ける神を礼拝するように」なるか、どうか。今日のわたしたちの人生と社会の大問題であ

る。

◯写真は、3月6日、東京・教団、駒込教会で開催された日本改革教会協議会の会場風景である。出席者は、

日本キリスト改革派教会、日本キリスト教会、日本キリスト教団のそれぞれの諸教会か

ら49名の参加者。(午後2時、撮影)