五、「教会とわたしたち」(418) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その58) 最終篇に入ります。
第二十二篇 神の国の永遠の浄福に
1. 天使と人間の創造について
彼らの可変的な本性は、すべてのものを良きものとして創造された・最高善にして変わることなき神によって造られたのであるから、それ自体としては(前回はここまで)善であり 、何らの悪をも含まなかったが、罪を犯すことによって自らに悪をもたらすに至ったのである。罪そのものが、彼らの本性は善であることの力強い弁証である。もし彼らの本性が偉大にして善でなければ―たとえ創造主とは比べられないにしても―、あたかも光から暗黒へ転ずるように、神から離れることは悪ではなかったろう。
このことは盲目が欠陥であり、目は見るために造られていることを示す。盲目は目があらゆる器官の中で、光を受けるに最も適したように造られていることを示す。もしそうでなければ、見ることができないということは欠陥ではないことになるであろう。そのように、神を喜びとするように造られている本性そのものが、神を喜びとしないときの惨めさにおいて顕わにされる欠陥そのものにより、本来は善なるものとして造られていることを示しているのである。神は自らの意思に基づく天使の堕罪に対し、永遠の悲惨という正当な刑罰を宣せられた。同時に、善なる状態に留まった者に対しては、その堅忍への報いとして、終わることのない保持の確かさを与えられた。
神は人間を~(つづく)(「神の国」出村彰訳)