日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2017-07-06 22:46:46 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(418)   近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その58)  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

1.  天使と人間の創造について

彼らの可変的な本性は、すべてのものを良きものとして創造された・最高善にして変わることなき神によって造られたのであるから、それ自体としては(前回はここまで)善であり何らの悪をも含まなかったが、罪を犯すことによって自らに悪をもたらすに至ったのである。罪そのものが、彼らの本性は善であることの力強い弁証である。もし彼らの本性が偉大にして善でなければ―たとえ創造主とは比べられないにしても―、あたかも光から暗黒へ転ずるように、神から離れることは悪ではなかったろう。

このことは盲目が欠陥であり、目は見るために造られていることを示す。盲目は目があらゆる器官の中で、光を受けるに最も適したように造られていることを示す。もしそうでなければ、見ることができないということは欠陥ではないことになるであろう。そのように、神を喜びとするように造られている本性そのものが、神を喜びとしないときの惨めさにおいて顕わにされる欠陥そのものにより、本来は善なるものとして造られていることを示しているのである。神は自らの意思に基づく天使の堕罪に対し、永遠の悲惨という正当な刑罰を宣せられた。同時に、善なる状態に留まった者に対しては、その堅忍への報いとして、終わることのない保持の確かさを与えられた。

神は人間を~(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-07-06 22:40:18 | 大分中央ウィークリー

創世記24章42節である。「こういうわけで、わたしは、今日、泉の傍らにやって来て、祈っておりました。『主人アブラハムの神、主よ。わたしがたどってきたこの旅の目的を、もしあなたが本当にかなえてくださるおつもりなら~、』」という。リベカを嫁にくれるかどうかの訴えであるのに、これに至る出来事をとくとくと語り続けている。らくだ10頭を引き連れ多くの贈り物を持ってはるばるやって来たのであったから、この語り方は聞く側が承知の上であったと思われる。多分、中近東の習慣であったのかもしれない。

 

それにしてもこの事情は、嫁取りの極めて上品な訴えになったに違いない。聞いている側は話の順序に従って、徐々にその気持ちにさせられるのである。これは初代教会の説教もそうであった。たとえば、五旬祭の日のペトロの説教が、「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」と、すでに知らされていた話をしている。

 

43節である。「わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っていますから、どうか、おとめが水をくみにやって来るようになさってください。彼女に、あなたの水がめの水を少し飲ませてください、と頼んでみます。」という。「御覧のように」と神ご自身に呼びかけているのは非常に謙遜である。口語訳聖書にはその謙遜なニーュアンスが表現されていない。原文ヘブライ語では「ヒーネー  アノキー  ニツァブ ~」である。英語の改定標準訳では、「behold ,Iam standing ~」ときちんと翻訳している。

 

われわれも日常生活で気をつけなければならない。いわゆる、やたらと自己主張を繰り返しながら日常生活を続けるのが普通である。確かに自己主張が悪いのではない。神が力を貸すから、つたない自己主張も実現に至るという認識があるかないかが大事。


牧 会 通 信

2017-07-06 22:20:22 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 17歌(カッコ内は筆子、その7)

◯その眼からは悲嘆が噴き出てゐた、あちこちへ手を振り動かして、火の子を払ひ、熱砂を引つ掻いてゐた。

  夏に犬たちが蚤や蠅や虻に刺されるとき、鼻づらや足で身を引つ掻くのにそつくりだつた。

  じりじり焼く火が落ちかかる幾人かの顔に眼を凝らしても、一人も見分けがつかなかつたが、わたしは気づいた、(前回ここまで)

◯めいめいの頸からそれぞれ異る色をし異る紋章についた、財布がぶら下がつてゐて、てんでに眼でそれを食べて生きてゐるらしいのに。

  熟視しながらそのものたちの間に入ると、黄の財布に青く獅子の顔と動作が浮き出てゐるのが見えた。

それから少し向うを見ると、バターよりも白い鵞 (がちょう) 鳥の浮き出た血の赤の財布が見えた。 (つづく)

 

◯本日、7月2日(日)の日本聖書協会の、「聖書愛読こよみ」の主題は「ヨナのしるし」という。聖書はヨナ書1章1~10節である。その1~2節に、「主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。』」という言葉から始まる。興味深い聖書物語である。全巻、たった4章。この際、一気に全巻を読んでいただきたい。ニネベはアッシリア帝国の首都であったが前612年に崩壊。それ以前のニネベを舞台にしたもので、神の救いの偏狭な民族主義を修正する目的を持つ神学的作品である。物語が書き上げられたのは前5世紀捕囚帰還以後である。

◯写真は、黒色方尖塔石碑(オベリスク)、高さ198cmの塔の様な石碑。1846年に古代アッシリアの首都ニムロデで発見、シャルマナセル三世が周辺諸国に遠征したときのことが楔形(せっけい)文字とレリーフ(浮彫絵)で描かれている。前825頃建立(大英博物館所蔵)