日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック 

2017-07-12 00:19:22 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(419)  近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その59)

  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

1.  天使と人間の創造について

このことは盲目が欠陥であり、目は見るために造られていることを示す。盲目は目があらゆる器官の中で、光

を受けるに最も適したように造られていることを示す。もしそうでなければ、見ることができないということは欠

陥をではないことになるであろう。そのように、神を喜びとするように造られている本性そのものが、神を喜びと

しないときの惨めさにおいて顕わにされる欠陥そのものにより、本来は善なるものとして造られていることを示

しているのである。神は自らの意思に基づく天使の堕罪に対し、永遠の悲惨という正当な刑罰を宣せられた。

なる状態に留まった者に対しては、その堅忍への報いとして、終わることのない保持の確かさを与えられた。

神は人間を(前回はここまで)確かに地上的被造物としてではあるが、しかも自由意志を備え、創造主に固く

留まる限りは、天にふさわしい・正しいものとして造られた。それゆえに、同じ理由によって、神を捨て去る場合

には、これに相当する刑罰が加えられるのも当然である。同じように、神は人間が神を捨て、罪のゆえに神の

掟てを破るであろうことを予知しておられたが、そのような行為を行う力を人間から奪い取ることをされなかっ

た。それは、同時に神はどのような善を悪からさえ作り出すことができるかを(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-07-12 00:18:37 | 大分中央ウィークリー

創世記24章43節である。「わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っていますから、どうか、おとめが水をくみにやって来るようになさってください。彼女に、あなたの水がめの水を少し飲ませてください、と頼んでみます。」という。「御覧のように」と神ご自身に呼びかけているのは非常に謙遜である。口語訳聖書にはその謙遜なニーュアンスが表現されていない。原文ヘブライ語では「ヒーネー  アノキー  ニツァブ ~」である。英語の改定標準訳では、「behold ,Iam standing ~」ときちんと翻訳している。

 

われわれも日常生活で気をつけなければならない。いわゆる、やたらと自己主張を繰り返しながら日常生活を続けるのが普通である。確かに自己主張が悪いのではない。神が力を貸すから、つたない自己主張も実現に至るという認識があるかないかが大事である。

 

44節である。「『~どうぞお飲みください、らくだにも水をくんであげましょう、と彼女が答えましたなら、その娘こそ、主が主人の息子のためにお決めになった方であるといたします。』」という。これは、今までの続きであるから、すでに彼が行ったことを思いおこしながら、極めて同じように、異なるところがないように、正確に思い返して語っている。

 

その表現の正確さが、そのままアブラハムの僕の主人の神への信頼と忠実と、周りの人々への誠実を映し出すことになります。事実、どこのだれが、イサクの嫁になる人なのか、この僕にはまったくわからなかった。それで不安であったと人は考えるであろう。しかし彼には自分が決めるのでないところに信頼があり全く動じないといえる。