日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2018-05-10 17:38:10 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(458)    5.近代から現代へ(宗教改革とその後」

初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その98)

  最終篇に入ります。

 第二十二編 神の国永遠の浄福

29.来るべきにおいて聖徒たちが神を仰ぎ見るとき、彼らが目の辺りにするのはどのようなものであろうか。

 「(肉なる)人はみな神の救を見るであろう」(ルカ三・六)と言われるとき、その意味は「すべての人が神のキリストを見るであろう」ということであることは容易に説明できる。キリストはいたるところで肉眼によって見られ、そして生ける者と死ぬ者とを裁くために再び来られるときにも、そのように見られるであろう。キリストが神の救いであることを示す前回はここまで)聖書の箇所は数多く見られる。幼子キリストを腕に抱いて言ったあの老シメオンの言葉はそのことを明らかに示している。「主よ、今こそあなたのみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの眼が今あなたの救いを見たのですから」(ルカ二・二九ー三〇)。

 わたしらちが神のもとへ行くのは信仰によってであり、またそれは肉体の働きではなく、こころの働きであることにはすべての人の考えに一致している。しかし、霊のからだがどのような能力を持つのか、わたしたちは知らない。わたしが語っていることを、だれも体験したことがないからである。わたしたちの理解力が及ばず、聖書の権威も助けにならないような場合には、「人の考えは乱れがちで、その見るところも不確かである」という知恵(ソロモンの知恵 九・一四)あてはまる。

哲学者たちの(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2018-05-10 17:35:48 | 大分中央ウィークリー

創世記25章17節である。「イシマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた。」という。アブラハムの生涯は百七十五年に対してここは百三十七年である。比較的われわれに寿命の年数に近づいてきたが、それでもやや長い。一年の長さが違うのか、年齢の数え方が違うのか、この程度なら、この世にありうる年齢としてその時代の人々の生命の長寿を表したのかもしれない。しかし、常識的には聖書の一般的な寿命は六十歳である(レビ27:3,7)。八十歳(詩90:10)は、聖書の時代にごくまれに見る年齢のようである。 

「死んで先祖の列に加えられた。」とは、アブラハムの場合と同じ表現である,表現の定型のようであるが、男子系の社会であるから、アブラハムの先祖の列に加えられたと考えることが普通である。21章13節に、アブラハムに「彼もあなたの子である」といわれているので、イシマエルの場合、「ハガルを先祖とする列」とは考えにくい。 

18節である。「イスマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。」という。人間とはおもしろいといえば語弊があるが、仲良くできないことにおいて、徹底した存在であるといわねばならないほど面白い人間存在なので、別の言葉では罪深いのである。 

本心は仲良くしたいのである。しかし実際はそうではない。利害が相反することに我慢ならない。身近には、兄弟に始まり、男と女の夫婦が一番この例に当てはまる。それでも我慢しているというのが実際であり18節の本文に「道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。」という。要するに部族同士互いに争いが絶えないのであった。たまに敵対するのではない。「敵対しつつ生活していた」のであった。


牧 会 通 信

2018-05-10 17:16:35 | 大分中央ウィークリー

(原光訳、2000年、沖積舎)

ダンテ著〈1265~1321〉の「神曲 地獄」編 20歌(その2)

◯わたしはすでに苦悶の涙に濡れたむきだしの底を熟視しようと、一心に身構え眼を凝らしてゐた。

 そして見た、この世の連禱の行列のうな足どりで、黙って涙を流しながら、人人が円い谷を歩いて来るのを。

 顔から下の方に視線を移すと、愕くべきことにみんな顎(あご)と胸の上端(はじまり)の間でぐるりとねぢられてゐるやうに見えた。前回はここまで)

◯顔は背の方へねじ回されてゐて、みんな後に向かつて歩まねばならぬのだ、前を見るのは禁じられてゐるので

 ひよつとするとかつて中風の暴力で、このやうにぐるりとねぢられたものがゐるかも知れぬ、だがわたしは見たことがなく、起こりうるとも思はれぬ。

 この詩を読んで果実が得られるやうにとわたしの願つてゐる、読者よ、 わたしの身になつて考へてもみたまへ、人間の姿がそのやうにねぢ回されて、(つづく)

◯本日、5月6日の日本聖書協会の「聖書愛読暦」の主題は「キリストの愛の内に」である。聖書本文は、ヨハネ21章15~19節である。その15節である。「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい。」といわれた。この主イエスとヨハネとの問答は、この後を読んでいただかねばなりません。全く同じ問答の繰り返しではありませんが、少しずつ言葉を変えながら、同じ内容を三度も繰り返して、主がペトロに語りかけつつ、実は、わたしたちにも

写真は先週5月3日(木・休)の福岡城南教会で開催された九州中会全体修養会での記念撮影風景です。92名集まった。