五、「教会とわたしたち」(458) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後」
初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その98)
最終篇に入ります。
第二十二編 神の国永遠の浄福
29.来るべき世において聖徒たちが神を仰ぎ見るとき、彼らが目の辺りにするのはどのようなものであろうか。
「(肉なる)人はみな神の救を見るであろう」(ルカ三・六)と言われるとき、その意味は「すべての人が神のキリストを見るであろう」ということであることは容易に説明できる。キリストはいたるところで肉眼によって見られ、そして生ける者と死ぬ者とを裁くために再び来られるときにも、そのように見られるであろう。キリストが神の救いであることを示す(前回はここまで)聖書の箇所は数多く見られる。幼子キリストを腕に抱いて言ったあの老シメオンの言葉はそのことを明らかに示している。「主よ、今こそあなたのみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの眼が今あなたの救いを見たのですから」(ルカ二・二九ー三〇)。
わたしらちが神のもとへ行くのは信仰によってであり、またそれは肉体の働きではなく、こころの働きであることにはすべての人の考えに一致している。しかし、霊のからだがどのような能力を持つのか、わたしたちは知らない。わたしが語っていることを、だれも体験したことがないからである。わたしたちの理解力が及ばず、聖書の権威も助けにならないような場合には、「人の考えは乱れがちで、その見るところも不確かである」という知恵(ソロモンの知恵 九・一四)あてはまる。
哲学者たちの(つづく)(「神の国」出村彰訳)