日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2018-05-17 21:42:31 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(459)     5.近代から現代へ(宗教改革とその後」

初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その99)

  最終篇に入ります。

 第二十二編 神の国永遠の浄福

29.来るべきにおいて聖徒たちが神を仰ぎ見るとき、彼らが目の辺りにするのはどのようなものであろうか。

 わたしらちが神のもとへ行くのは信仰によってであり、またそれは肉体の働きではなく、こころの働きであることにはすべての人の考えに一致している。しかし、霊のからだがどのような能力を持つのか、わたしたちは知らない。わたしが語っていることを、だれも体験したことがないからである。わたしたちの理解力が及ばず、聖書の権威も助けにならないような場合には、「人の考えは乱れがちで、その見るところも不確かである」という知恵(ソロモンの知恵 九・一四)あてはまる。

哲学者たちの前回はここまで) 論議によれば、叡智的な事物は精神によって、物質的な事物は感覚によって知覚される。肉体は叡智的な事物を知覚し得ないし、精神は物質的な事物を知覚することができない。そして、もしこの論議が正しければ、たとえ霊のからだといっても、肉眼をもって神を見ることは全く不可能だということになるであろう。しかし、この帰結は理性そのものと預言者たちの権威とによってしりぞけられる。神が身体的事柄を知っておられることを否定するような真理の敵は、いったいだれであろうか。神はこれらを認知するための眼を備えたからだを持っておられるとでも言うのだろうか。・・・・・・

そのときに、わたしたちが新しい天と地の物質的からだを、(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2018-05-17 21:40:50 | 大分中央ウィークリー

創世記25章17節である。「イシマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた。」という。アブラハムの生涯は百七十五年に対してここは百三十七年である。比較的われわれに寿命の年数に近づいてきたが、それでもやや長い。一年の長さが違うのか、年齢の数え方が違うのか、この程度なら、この世にありうる年齢としてその時代の人々の生命の長寿を表したのかもしれない。しかし、常識的には聖書の一般的な寿命は六十歳である(レビ27:3,7)。八十歳(詩90:10)は、聖書の時代にごくまれに見る年齢のようである。 

「死んで先祖の列に加えられた。」とは、アブラハムの場合と同じ表現である,表現の定型のようであるが、男子系の社会であるから、アブラハムの先祖の列に加えられたと考えることが普通である。21章13節に、アブラハムに「彼もあなたの子である」といわれているので、イシマエルの場合、「ハガルを先祖とする列」とは考えにくい。 

18節である。「イスマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。」という。人間とはおもしろいといえば語弊があるが、仲良くできないことにおいて、徹底した存在であるといわねばならないほど面白い人間存在なので、別の言葉では罪深いのである。 

本心は仲良くしたいのである。しかし実際はそうではない。利害が相反することに我慢ならない。身近には、兄弟に始まり、男と女の夫婦が一番この例に当てはまる。それでも我慢しているというのが実際であり18節の本文に「道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。」という。要するに部族同士互いに争いが絶えないのであった。たまに敵対するのではない。「敵対しつつ生活していた」のであった。


牧 会 通 信

2018-05-17 21:34:20 | 大分中央ウィークリー

 牧 会 通 信        (原光訳、2000年、沖積舎)

ダンテ著〈1265~1321〉の「神曲 地獄」編 20歌(その3)

◯顔は背の方へねじ回されてゐて、みんな後に向かつて歩まねばならぬのだ、前を見るのは禁じられてゐるので

 ひよつとするとかつて中風の暴力で、このやうにぐるりとねぢられたものがゐるかも知れぬ、だがわたしは見たことがなく、起こりうるとも思われぬ。

 この詩を読んで果実が得られるやうにとわたしの願つてゐる、読者よ、

 わたしの身になつて考へてもみたまへ、人間の姿がそのやうにねぢ回されて、前回はここまで)

◯眼から溢れ落ちる涙が割れ膨らむ臀部(しり)を濡らすのを、近くで見たとき、どうしてわたしが顔を濡らさずにゐられたらうか。

 ほんとにわたしは泣いてゐた、ごつごつした岩橋の突出た岩の一つに支えられて、すると護り導くものが言つた、「まだそなたは人並に愚かなのか?(つづく)

 

◯本日、5月13日の日本聖書協会の「聖書愛読暦」の主題は「聖霊の約束」である。聖書本文は、ルカ22章44~

49節である。その44節である。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ち

た」と言われている。「汗が血の滴るように」というのは人間の精神的苦悩の激しい時に見られる現象であると言わ

れている。真の人としてイエスの苦しみの極限状態を現しているとともに、わたしたちがそのような苦しみに遭うこと

がないように完全な身代わりとなっていてくださる完全な苦しみである。この世界には、これに代わる身代わりがな

いという意味で、イエスの苦しみの、それを信じるとき人は完全に救われる。

 

写真は、牧師館の東側のフェンス際のバラが満開です。5月11日午前11時ころ撮影、天候は快晴です。