日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2017-07-19 22:58:42 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(420)    近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その60)

  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

1.  天使と人間の創造について

神は人間を確かに地上的被造物としてではあるが、しかも自由意志を備え、創造主に固く留まる限りは、天に

ふさわしい・正しいものとして造られた。それゆえに、同じ理由によって、神を捨て去る場合には、これに相当す

る刑罰が加えられるのも当然である。同じように、神は人間が神を捨て、罪のゆえに神の掟てを破るであろうこ

とを予知しておられたが、そのような行為を行う力を人間から奪い取ることをされなかった。それは、同時に神

はどのような善を悪からさえ作り出すことができるかを(前回はここまで)知っておられたからである。この断罪

を受けた死すべき人間の子孫から、神は恵みのわざによって、御自分のために大いなる民を集めようとされ

た。それによって、神は堕落した天使の代わりとし、その愛する天の国がその市民の数を欠くことなく、さらに

大きな人数のゆえに喜ぶようにされたのである。

2.神の永遠に変わることなき意志について。

3.聖徒に対する永遠の浄福

4.人間の地的な肉体を天のすまいに移すこ

  とはできないと考える、この世の知者に

   対して。

 学者や哲学者と呼ばれる人々うちには、前述ごとく、このような信仰と望みをもって

 あらゆる種類の人々に霊感を与えて来た〔聖書の〕権威の重さに(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-07-19 22:52:39 | 大分中央ウィークリー

創世記24章44節である。「『~どうぞお飲みください、らくだにも水をくんであげましょう、と彼女が答えましたなら、その娘こそ、主が主人の息子のためにお決めになった方であるといたします。』」という。これは、今までの続きであるから、すでに彼が行ったことを思いおこしながら、極めて同じように、異なるところがないように、正確に思い返して語っている。 

その表現の正確さが、そのままアブラハムの僕の主人の神への信頼と忠実と、周りの人々への誠実を映し出すことになります。事実、どこのだれが、イサクの嫁になる人なのか、この僕にはまったくわからなかった。それで不安であったと人は考えるであろう。しかし彼には自分が決めるのでないところに信頼があり全く動じないといえる。 

45節である。「わたしがまだ心に言い終わらないうちに、リベカさまが水がめを肩に載せて来られたではありませんか。そして、泉に下りて行き、水をおくみになりました。わたしが、『どうか、水を飲ませて下さい』と頼みますと、~」という。正確に復唱するような話がなおもつづきます。しかし、聞き手はそのよどみなくつづく話に、かえて興味津々、なお引き込まれていきます。そういう語り口で進みました。

 話が身内の「リベカさま」に言い及んだ。聞き手は体を乗り出すような感じでありました。彼女はいつもの水くみで慣れているとはいえ、井戸端には見るからに如何にも遠来の客人であることはわかるはずであり、もし必要とあれば飲ませてあげねばならないと、その心積もりをして泉から上がってくるはずであります。そのような心遣いがここでは必要でありました。普通のことではありますが、この経験で普通のことが、普通にできるということは、日ごろの生活の穏健なありかたが問われている。


牧 会 通 信

2017-07-19 22:36:44 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 17歌(カッコ内は筆子、その8)

◯すると青い孕(はら)み豚の紋章のついた、白い小袋をぶら下げたものがわたしに言つた、「この奈落で何をしてるんだ?

  行つちまへ、お前はまだ生きているんだから、(世に伝えるために)知っとけ、わしの隣人ヴィタリアノはわしの左手の(罪が大きいために)ここに坐るんだ。(「パドヴァ」フィレンツェの北200キロの都「パドバ」)

  このフィレンツェの奴等と一緒のわしはパドヴァ者だ、こいつらはしばしば絶叫してわしの耳をつんざく、最高の騎士よ来たれ、(前回ここまで)

◯雄山羊三頭の財布をもって! と。」ここで口を歪めて舌を外へ引き出した、鼻を舐める牛のやうに。

  もつとゐつづけると、すぐ戻れと忠告した師が苛立ちはせぬかと懼れて、わたしは惨めな霊たちから引返した。

  先達はすでに猛獣の背に乗つてゐて、わたしに言つた、「さあ肝つ玉太く思ひきつてやれ、(つづく)

 

◯本日、7月16日(日)の日本聖書協会の、「聖書愛読こよみ」の主題は「自然の中で神をたたえる」という。聖

書は詩編121編1~8節である。その1節、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来る

のか。」と。わたしたちの祈りは、主なる神に幸いを求めることから始まるといってよい。あのカールブッセ〔上田

敏訳〕の詩を思い出す。「山のかなたの、なお遠く、幸い住むと、人のいう。」と。幸いを求めるのが祈りの基本

でわれらもまた、この大自然の中でこそ、主なる神に「幸い」を求められよ。

◯写真は、先月6月11日特別伝道礼拝の感謝会の記念写真。伝道のご奉仕の喜びの思いを込めての集ま

り。種蒔きの実りが現れるように。


プロテスタントとカトリック 

2017-07-12 00:19:22 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(419)  近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その59)

  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

1.  天使と人間の創造について

このことは盲目が欠陥であり、目は見るために造られていることを示す。盲目は目があらゆる器官の中で、光

を受けるに最も適したように造られていることを示す。もしそうでなければ、見ることができないということは欠

陥をではないことになるであろう。そのように、神を喜びとするように造られている本性そのものが、神を喜びと

しないときの惨めさにおいて顕わにされる欠陥そのものにより、本来は善なるものとして造られていることを示

しているのである。神は自らの意思に基づく天使の堕罪に対し、永遠の悲惨という正当な刑罰を宣せられた。

なる状態に留まった者に対しては、その堅忍への報いとして、終わることのない保持の確かさを与えられた。

神は人間を(前回はここまで)確かに地上的被造物としてではあるが、しかも自由意志を備え、創造主に固く

留まる限りは、天にふさわしい・正しいものとして造られた。それゆえに、同じ理由によって、神を捨て去る場合

には、これに相当する刑罰が加えられるのも当然である。同じように、神は人間が神を捨て、罪のゆえに神の

掟てを破るであろうことを予知しておられたが、そのような行為を行う力を人間から奪い取ることをされなかっ

た。それは、同時に神はどのような善を悪からさえ作り出すことができるかを(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-07-12 00:18:37 | 大分中央ウィークリー

創世記24章43節である。「わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っていますから、どうか、おとめが水をくみにやって来るようになさってください。彼女に、あなたの水がめの水を少し飲ませてください、と頼んでみます。」という。「御覧のように」と神ご自身に呼びかけているのは非常に謙遜である。口語訳聖書にはその謙遜なニーュアンスが表現されていない。原文ヘブライ語では「ヒーネー  アノキー  ニツァブ ~」である。英語の改定標準訳では、「behold ,Iam standing ~」ときちんと翻訳している。

 

われわれも日常生活で気をつけなければならない。いわゆる、やたらと自己主張を繰り返しながら日常生活を続けるのが普通である。確かに自己主張が悪いのではない。神が力を貸すから、つたない自己主張も実現に至るという認識があるかないかが大事である。

 

44節である。「『~どうぞお飲みください、らくだにも水をくんであげましょう、と彼女が答えましたなら、その娘こそ、主が主人の息子のためにお決めになった方であるといたします。』」という。これは、今までの続きであるから、すでに彼が行ったことを思いおこしながら、極めて同じように、異なるところがないように、正確に思い返して語っている。

 

その表現の正確さが、そのままアブラハムの僕の主人の神への信頼と忠実と、周りの人々への誠実を映し出すことになります。事実、どこのだれが、イサクの嫁になる人なのか、この僕にはまったくわからなかった。それで不安であったと人は考えるであろう。しかし彼には自分が決めるのでないところに信頼があり全く動じないといえる。