日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

牧 会 通 信

2017-11-14 15:04:03 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎、)

ダンテ(1265-1321)の「神曲 地獄」編 18歌(その9)

◯親切な師はわたしの質問を待たずに言つた、「いま来るあの偉丈夫を見ろ、どんな苦痛にも涙を流さぬらし

い。

  なんとまだ王者らしく見えることか!あれは勇気と智謀で、コロキス(黒海)人から金羊皮(「壮羊」)を奪つ

たヤソン(神話に名高い勇士)だ。

  あれは無謀で残酷な女たちが男という男をみな殺しにした、レノの島(エーゲ海)へ渡り、(前回ここまで)

◯そこで惚(ほ)れた仕草と飾り立てた言葉で、島の女たちをみんな騙していた娘、イシフィレを騙 し、

  身重になるとそのまま棄てていつたのだが、その罪でこんな責苦を受けているのだ。それにがメディアの復

讐もなされてゐるのだ。」(つづく)

 

◯本日11月12日(日)の日本聖書協会は聖書本文はルカ15章1~7節で、その主題は「失われた者の

救い」である。その7節「悔い改める一人の罪人」とは、だれのことか。「一人の罪人については、悔い改める必

要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」というが。

 

写真は、11月1日(水)午前中の祈祷会後、秦博記長老のお車で、去る10月29日に開館したばかりの竹田

市キリシタン研究所・資料館の展示遺品を見学。

写真の右は迫害以前のマリア像。中央上はマリア香炉(直径十㎝)中央下はモンゴルからの十字架が刻まれ

た輸入遺品、薬品入れと煙管。迫害以前、安土山時代遺品。写真左、迫害時代、鏡の中央をはぐと黄マリア

像。神戸・田中豁(ひろし)先生寄贈.


秋の特別伝道礼拝の予告

2017-11-08 03:29:06 | 大分中央ウィークリー

2017年11月26日(日)前10時20分

朝礼拝説教:題「明日のことまで思い悩むな」

語る人 大分中央教会牧師 南茂 昭夫(なんも あきお、)

案内チラシを街頭に配布、また個別訪問はいたしません。どなたも進んで、ご自由においでください。11時30分までに終わります。聖書の話の、どんな説教をするのか、期待しておいでください。「聖書」は教会の受付に用意されています。

礼拝会場、大分県立美術館の地続きの西となり。大分中央教会礼拝堂。ご自由に入りください。

伝道開始1889年(明治22年)8月、大分町(現大分市)で伝道開始、今日に及んでいます。


プロテスタントとカトリック

2017-11-08 03:04:31 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(435)

近代から現代へ(宗教改革とその後)はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その75)  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

  7.この世がキリストを信じるに至ったのは、人間的な説得の結果ではなく、神の力の結果である。

  8.この世をキリストの信仰へと獲得するためになしとげられ、世界が信ずるに至った今でもなされている奇

      跡について。

  わたしが説教をする時刻になったとき、わたしはこのような折に適し、また起こったばかりの喜ばしい出来事にふさわしいような短い勧めを行った。かくも雄弁な神の行為に面しては、他の人がそれについて語るのを耳にするよりは、それぞれが (前回はここまで) 自分の心の中で思いめぐらす方がまさっている、とわたしは彼らに言った。その男はわたしたちとともに断食をし、彼自身の、また兄弟姉妹や母の不幸について詳しく語った。翌日、わたしの説教の後で、この出来事の詳細な公式の報告を読み上げさせると人々に告げた。復活節から三日目に、わたしは兄妹をいつもわたしが説教をする司教座の前の階段に立たせ、物語りを読み上げさせた。

  男女の全会衆は兄妹を目のあたりにしたが、兄はしっかりと立っているのに、妹は全身震えているのに気がついた。神の憐みが兄のためになしたことを自分で見なかった者たちも、その妹を見ることによってこれを知ることができた。人々は兄のゆえに感謝を捧げ、妹のために何を祈り求むべきかを知った。読み終えると、わたしは二人に(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-11-08 03:01:40 | 大分中央ウィークリー

創世記24章60節である。「リベカを祝福して言った。『わたしたちに妹よ あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。』」とある。ここで「敵の門」の「敵」は、「憎む者(シャラー)」である。組織的な「敵(アヤーブ)、22:17」」ではなく、個人的な「憎む者」の言葉が使われている。女性としての「敵」にはいろいろ多種多様であって内面的な「敵」をその子孫にも予想しているのかもしれない。

 ただここの場合の祝福は、リベカの即興的な快諾に対する祝福であって、どこの社会にもあるような花嫁を送り出すときの習慣的なものとして用意されていたものかもしれない(ルツ4:11~12)。この祝福について、カトリック側の註解書、フランシスコ会の解説書では、「彼女の多産と子孫の繁栄を祈る別れのあいさつである」といっている。リベカの即答的な決断に対する近親者らの喜びばかりではなく一種の不安をここに含めているのかも知れない。しかし僕の影響を受けて主なる神に委ねる心が見える。 

61節である。「リベカは、侍女たちと共に立ち上がりらくだに乗り、その人の後ろに従った。僕はリベカを連れて行った。」という。リベカには大いなる希望の時であり、アブラハムの僕にとっては、主人アブラハムとの約束を果たさせていただいた感謝と喜びのときであったと思われる。何よりも神への信頼と信仰と強くしたに違いない。 

しかし、人の人生は単純ではない。複雑怪奇であるといえるかもしれない。しかし懼れることはない。主なる神が支配しておられる世界であることを深く理解できるかが問題である。神が人の人生の全てを支配している。神のみ心がどのように現われるのか、アブラハムの僕が祈りつつ、明確な決断と行動をしていたようであった。


牧 会 通 信

2017-11-08 02:55:16 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎、)

ダンテ(1265-1321)の「神曲 地獄」編 18歌(その9)

◯鞭打たれるものたちを通すために下が空洞になつてゐるところに来ると、先達が言つた、「立止まつて、悪く生れついたあのものたちの眼が

まつすぐそなたに出会ふやうにせよ、わたしらと一緒に進んでゐたので、そなたはまだあのものたちの顔を見なかつたからだ。」

わたしらは古い橋から凝視した、内側をわたしらに向つて来る列を、これもひとしく革鞭で追立てられてゐた。(前回ここまで)

◯親切な師はわたしの質問を待たずに言つた、「いま来るあの偉丈夫を見ろ、どんな苦痛にも涙を流さぬらしい。

なんとまだ王者らしく見えることか!あれは勇気と智謀で、コロキス(黒海)人から金羊皮(「壮羊」)を奪つたヤソン(神話に名高い勇士)だ。

あれは無謀で残酷な女たちが男という男をみな殺しにした、レノの島(エーゲ海)へ渡り、(つづく)

 

◯本日11月5日(日)の日本聖書協会は聖書本文はマタイ11章28~30節で、その主題は「弱い者への招き」である。28節、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と。

写真は去る10月16日(月)後四時から東京・柏木教会で開催された宗教改革500年改革派合同教職者会が開かれ日本改革派基督教会から神戸改革派神学校の専任教授・袴田康裕氏(写真)が立ち、日本キリスト教会から大会議長・冨永憲司氏が立てられて、それぞれ記念講演を語った。講演録は、後日発行される予定。