心が満ちる山歩き

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ベートーヴェンの交響曲の名演 交響曲第4番(2) 戦時中のフルトヴェングラーの録音を聴いて

2020年04月20日 | 名演奏を聴いて思ったこと


 ((1)のつづき)
 
 フルトヴェングラーでぜひもう1つ取り上げたいのは、4種類の中で唯一、第二次世界大戦中に演奏された1943年6月27日~30日の記録です。
 この録音には、(A)ライヴ録音と(B)放送用の録音があります。『フルトヴェングラー完全ディスコグラフィー 2008年改訂版』(ディスクユニオン)によると、前半がライヴ・後半は放送用という折衷バージョンのCDもあるようです。
 両方ともデルタ・クラシックスから発売されている復刻CDで聴きましたが((A)DCCA-0023(B)DCCA-0006)、録音状態は(A)の方が曇った感じが少なく明快に感じました。
 演奏中のあちこちで咳の聞こえる部分があり、ライヴであることは明らかです。
 第一楽章、(3:31)の最強音に達する直前の雰囲気が凄まじいです。音の鳴っていない休止の部分すべてに緊迫感があります。
 第4番からこれほどデモーニッシュなものを引き出すことのできた指揮者は、フルトヴェングラーだけだと思います。
 音楽評論家の宇野功芳氏は、この演奏について次のように述べています。

 「~ ベートーヴェンの「第一」「第二」「第四」などを、ハイドンやモーツァルトの延長として、こぢんまりと指揮することには、僕は反対である。これはあくまでベートーヴェンだからだ。しかし、これら三曲が、「エロイカ」「第五」「第七」「第九」などと違うのもまた事実である。内容はともかくとしても、規模が異なる。したがって、こぢんまりとさせてはいけないが、そこには自ら限度が出てこよう。ところが、フルトヴェングラーはそんなことには一切頓着していない。馬鹿でかいスケールと、はちきれるような内容をもって、世界の苦悩を一身に背負った表現を、誰はばかることなく行っているのだ。これを戦時下という時代のせいにしてはならない。芸術の根本とは本来このようにあるべきだからだ。
  「第四」の場合、確かに疑問は残るが、フルトヴェングラーにとって、これ以外に自分の生きる道はなく、妥協すれば彼も死に、ひいては音楽自体も死んでしまう。だから正直に、感じた通りを行うことだけが、芸術家としての彼の真実となり得るのである。 ~」
 (宇野功芳『フルトヴェングラーの全名演名盤』(講談社+α文庫))


 フルトヴェングラーの指揮した第4番は、すべて「そんなことには一切頓着していない」演奏であり、「世界の苦悩を一身に背負った表現を、誰はばかることなく行っている」ことも間違いありませんが、その性格が最も色濃く現われているのがこの戦時中の録音だと思います。
 宇野氏は、「これを戦時下という時代のせいにしてはならない。」とも述べています。しかし、それ自体はその通りだとしても、これは戦時中という、尋常ではない時代だったからこそ生まれた演奏だとも強く思うのです。
 
 第一楽章の(4:40)で、ファゴットがテンポを落として出るところは、聴衆の誰もが息を呑んだ場面に違いありません。あるいは(5:22)の力強い合奏、(5:32)の急激な強弱の対比。
 (8:00)から(8:39)へかけては巨大なクレッシェンドが印象的です。その後でテンポが加速するところがとても自然で、合奏全体の迫力が倍加しています。


 第二楽章はかなり遅く進みます。まとまりの良さでは1950年の録音の方が良いと思うものの、巨人の足取りを直に聴くような(1:03)や(4:28)など、名場面も多いです。
 (3:09)のピチカートを聴くたびに、戦時中の名演を自宅のスピーカーで聴けることそのものが喜びだという気持ちになれます。
 また、この遅い進行の中に、微妙なテンポの動きが散りばめられているのも逃せません。
 (5:41)では、「妥協」することなく、「世界の苦悩を一身に背負った表現」の一つが聴かれます。これは、第4番に限らず、フルトヴェングラーが指揮するベートーヴェンの交響曲すべてで聴くことができるものです。
 第三楽章では、フォルティッシモの一つ一つすべてから、フルトヴェングラーの情熱を感じることができます。
 (1:15)のオーボエでスローダウンしたのは、その時点では必然性を感じなかったのですが、わずか1分後、(2:21)のスケールが大きい表現のためだったのか!という発見がありました。
 第四楽章は冒頭のスフォルツァンドからすごく、速いテンポも相まって、第三楽章以上の情熱が横溢しています。(1:09)の流麗ながら密度の濃いヴァイオリン、(2:26)や(5:22)の壮絶なフォルティッシモの凄まじさ!
 最後は加速気味に、最高の気迫にあふれた3つの和音で締めくくられます。その3つ目がパタっとちょん切れるように録音が終わってしまい、拍手もカットされているのは残念です。
 「自分がその時客席にいたら、どんな気持ちになっただろう」と思う場面が、全曲中あちこちに出てきます。これこそ、昭和18年の演奏会の臨場感と言わずして何でしょうか?
 ただ単に1枚のCDとして聴くだけなら、この演奏の持つ意味は半減してしまうとも思います。


 (つづく) 



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