壊れる日本人―ケータイ・ネット依存症への告別 (新潮文庫)柳田 邦男新潮社このアイテムの詳細を見る |
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副題に「ケータイ・ネット依存症への告別」とある。
一瞬ドキッとしてしまった。
確かに日に何度もネットを開ける。ケイタイも通話よりメール。
ブログ更新が主だけど、買い物、調べ物、暇つぶし…
確かに私にもケータイ・ネット依存症的なところがある。
時間かけずに手早く事が解決してしまうようになった。
このあたりで壊れてゆくものを警鐘されている。
沈黙の時間であるとか待つ時間の豊潤さが完全にシャットアウトされそうな昨今。
前篇の最後にノーケイタイ、ノーテレビデーをとある。
ノーテレビは個人的な問題であるけれどケイタイは人と繋がっている。
どこでもいつでも繋がるケイタイは確かに煩わしい。
特に職場ケイタイは休日オフタイムは勘弁して欲しいと思うが、緊急性のある場合もあり致し方ない。
田舎においても車社会がご近所関係を壊してしまった。
家からサッと車で出て帰り、近所の人とゆっくり道行きながら話す機会が薄れた。
『隣は何をする人ぞ』は都会だけの話でなくなってきた。
24時間365日開いているコンビニ。スーパーマーケットも増えている。
店に並ぶ総菜、弁当の数々。家で調理しなくても充分に食生活が成り立つ。
便利になってゆく度に人は何かを取り落としてゆくのは事実。
本書の初版は平成17年、18年。
今ほどの普及はない時に書かれている。素早い警鐘、さすが柳田邦夫さん。
しかし、今更、ネットもケイタイもない時代に後戻りは出来ない。
ここまで浸透して、まだまだ進化の一途のITにちょっと時代遅れな感じを受けた。
「使えない世代が言いそうよね」と言う感想を持たれそうな懸念がある。
使うのはいいけれど使われてはいけない。
自分を見失うほどどっぷり浸かるのは確かに考えもの。
ネットに向かう時間が増えるにつれ、他の事に裂く時間が減ってゆく。
幼少から慣れ親しんだ子供がどういう文化を築いてゆくのか?
壊れないように見守るのは個々の大人の責任になろう。
機械に(そして他者に)縛られてしまうんですよね
e-mail の返信が速攻で来ると
「いやいや、そんなに気を配ってくれなくても
側に居ない私の事なんて放っといていいよ」
と思ってしまいます
また、
ちょっと考えてほしい内容の時に即レスが来ちゃうと
「反射で返してない?」とも思い ちょっとがっかりしちゃったり
短い文で絵文字入りって、伝わっているのか伝わってないのか?
業務連絡用程度の利用でいいのかもしれません。
結構、長くケイタイ、PCに時間を割いている私