到着したら店の中で待つようにとのことだったので
出迎えてくれた高齢の女将らしき人に
「S氏の紹介で参りました」と伝えると
「おこしやす」との暖かい返事とともに、丁寧に迎え入れてくれた。
上がり場正面には、時代劇ファンなら察しが付くかもしれないが
「元禄時代・赤穂浪士が吉良邸討ち入りの夜、本所そば屋の二階に集結し、
内蔵助の号令とともに浪士一同が一気に駆け下りてきた2m幅ほどの急な階段」 あのイメージのものが正面にあった。
そこを左に折れ、細めの廊下を奥に進んで左手の部屋へ案内された。
畳部屋を改造し、掘りゴタツ式のカウンターバーがそこにはあった。
上等の着物を着た60代半ばの男性が席におり、水割りを飲んでいた。
「アマルさんかい?」 声を掛けられた。
「はいッ! アマルでございます」
「Sさんから聞いているよ。じきに皆も来るからあんたも何か飲んでお待ちよ」 と誘ってくれた。(京都弁ではなかった)
あとでS氏から聞いたところ、この男性が輪違屋の常連客で
くちきき(紹介)をしてくれた人だった。(某上場企業の会長さんだとか...)
カウンター内には、短髪で着流しのいなせなマスターがいた。
ただ、大変女性的な話し方をする(=もしかしてオカマさんかも)人だ。
「アラッ、おこしやす。 こちら東京のお方?」
ってな感じで50~60代のおじさまたちの魚にされている間に
ほどなくS氏ほか5名が到着した。
S氏は座している某会長の紹介で3度目ということで
皆がお座敷で遊んでいる間バーで待つこととなり、
この日は、一見さんばかり
東京、関西(大阪・神戸)、九州(博多)人の計7名の夜となった。
(7名の中では私が最も若く、他は50歳前後の中年ボーイズ
職種も多様だった。経営者2人、税理士2人、公認会計士1人、ジャーナリストなど...皆 社会的地位のある男たちばかり)
関西人は3人おり、彼らは滅多に入れない店なので少々興奮していた。
加えて、私より太夫という存在について知識を持っているようで
「太夫はんと同席するなんて、恐れ多いことや」などと語る。
当初太夫についての知識がほとんどない私には
なぜそんなに興奮するのかがわからなかった。
しかしその興奮する理由が、この日を境にわかるようになった。
待つこと20分ほどして
お座敷の用意ができたということで
女将に案内され皆で別室へと移動した。
(つづく)
*予備知識...「太夫の位」
太夫は「正五位」という天皇にも拝顔できる大変高貴な身分にある最高位の芸妓。
幕末に京都守護職にあった徳川御三家の流れにある会津9代藩主・松平容保に与えられていた位でも正四位下で、正五位以上の位でないと天皇の拝顔は許されなかった。
(注) 前回紹介した司太夫管理の以下のHPに司太夫の正面顔写真があるが、太夫の右襟の立て方にご注目あれ。高僧の中にもこの襟の立て方を見かけることもあるが、この襟の立て方は「正五位」の位にある人だけに許された着こなしであるそうだ(太夫との談話より)
http://kyoto.cool.ne.jp/tukasa21/hajime.html
太夫はそのような位を持つためか、客が太夫を揚屋の座敷に呼ぶ際には、揚屋で客が依頼の書面を作成し、それを揚屋の主人が太夫の居る置屋へ持参し、太夫が了解した場合に初めてお座敷への顔出し交渉成立となった。
そのお座敷のために置屋から揚屋へ向かう道中の事を「太夫道中」といわれている。
*「太夫道中」...着飾った太夫の前にカムロと引舟というお付きの者を連れ、太夫の背後からは太夫に直射日光が当たらないように太夫の肩越しに大傘を差し掛け、太夫は足で8の字を描くように歩き進む様のことをいう。
(画像:輪違屋所持の道中日傘)
ちなみに(京の太夫を真似たとされる)東京・吉原では「花魁(おいらん)道中」といっているが、花魁には正五位の位は授けられていない。
出迎えてくれた高齢の女将らしき人に
「S氏の紹介で参りました」と伝えると
「おこしやす」との暖かい返事とともに、丁寧に迎え入れてくれた。
上がり場正面には、時代劇ファンなら察しが付くかもしれないが
「元禄時代・赤穂浪士が吉良邸討ち入りの夜、本所そば屋の二階に集結し、
内蔵助の号令とともに浪士一同が一気に駆け下りてきた2m幅ほどの急な階段」 あのイメージのものが正面にあった。
そこを左に折れ、細めの廊下を奥に進んで左手の部屋へ案内された。
畳部屋を改造し、掘りゴタツ式のカウンターバーがそこにはあった。
上等の着物を着た60代半ばの男性が席におり、水割りを飲んでいた。
「アマルさんかい?」 声を掛けられた。
「はいッ! アマルでございます」
「Sさんから聞いているよ。じきに皆も来るからあんたも何か飲んでお待ちよ」 と誘ってくれた。(京都弁ではなかった)
あとでS氏から聞いたところ、この男性が輪違屋の常連客で
くちきき(紹介)をしてくれた人だった。(某上場企業の会長さんだとか...)
カウンター内には、短髪で着流しのいなせなマスターがいた。
ただ、大変女性的な話し方をする(=もしかしてオカマさんかも)人だ。
「アラッ、おこしやす。 こちら東京のお方?」
ってな感じで50~60代のおじさまたちの魚にされている間に
ほどなくS氏ほか5名が到着した。
S氏は座している某会長の紹介で3度目ということで
皆がお座敷で遊んでいる間バーで待つこととなり、
この日は、一見さんばかり
東京、関西(大阪・神戸)、九州(博多)人の計7名の夜となった。
(7名の中では私が最も若く、他は50歳前後の中年ボーイズ
職種も多様だった。経営者2人、税理士2人、公認会計士1人、ジャーナリストなど...皆 社会的地位のある男たちばかり)
関西人は3人おり、彼らは滅多に入れない店なので少々興奮していた。
加えて、私より太夫という存在について知識を持っているようで
「太夫はんと同席するなんて、恐れ多いことや」などと語る。
当初太夫についての知識がほとんどない私には
なぜそんなに興奮するのかがわからなかった。
しかしその興奮する理由が、この日を境にわかるようになった。
待つこと20分ほどして
お座敷の用意ができたということで
女将に案内され皆で別室へと移動した。
(つづく)
*予備知識...「太夫の位」
太夫は「正五位」という天皇にも拝顔できる大変高貴な身分にある最高位の芸妓。
幕末に京都守護職にあった徳川御三家の流れにある会津9代藩主・松平容保に与えられていた位でも正四位下で、正五位以上の位でないと天皇の拝顔は許されなかった。
(注) 前回紹介した司太夫管理の以下のHPに司太夫の正面顔写真があるが、太夫の右襟の立て方にご注目あれ。高僧の中にもこの襟の立て方を見かけることもあるが、この襟の立て方は「正五位」の位にある人だけに許された着こなしであるそうだ(太夫との談話より)
http://kyoto.cool.ne.jp/tukasa21/hajime.html
太夫はそのような位を持つためか、客が太夫を揚屋の座敷に呼ぶ際には、揚屋で客が依頼の書面を作成し、それを揚屋の主人が太夫の居る置屋へ持参し、太夫が了解した場合に初めてお座敷への顔出し交渉成立となった。
そのお座敷のために置屋から揚屋へ向かう道中の事を「太夫道中」といわれている。
*「太夫道中」...着飾った太夫の前にカムロと引舟というお付きの者を連れ、太夫の背後からは太夫に直射日光が当たらないように太夫の肩越しに大傘を差し掛け、太夫は足で8の字を描くように歩き進む様のことをいう。
(画像:輪違屋所持の道中日傘)
ちなみに(京の太夫を真似たとされる)東京・吉原では「花魁(おいらん)道中」といっているが、花魁には正五位の位は授けられていない。
「アマルさんはエロイオヤジ!!!」と、しっかりインプットされてます。
それにしても、アマルさんは物尻(!)ですね。
少し尊敬しちゃった。
勉強は・・・やらなきゃならないけど、
ちょっと浮かれ気味で、勉強ところではあります(?)←まだ理性を失ってない。
続き、期待してますよ。
ここの来れるのも今週までかな・・
しっかり勉強せ~ヨ!
今週は輪違屋や太夫とのひとときでのブログ。
エロイものは登場しないゾッ。
高尚なレベルでの感動話があるので、
それを書き止めておく。
他のHPやブログでは書かれていない内容のものを紹介しよう(貴重な画像も入手)。