あめふり猫のつん読書日記

本と、猫と、ときどき料理。日々の楽しみ、のほほん日記

ほんのりとした不安。

2010-11-13 00:59:03 | アニメ・コミック・ゲーム

きのう何食べた?(4) (モーニングKC) きのう何食べた?(4) (モーニングKC)
価格:¥ 590(税込)
発売日:2010-10-22
これは既刊3冊と同様、友達が貸してくれました。

以前ちょっと書きましたが、最初読む前はストーリー部分より、料理の描写が興味の大半でした。

あんまり、BLに関心のない方なので。

けれど、読んでみるとこれが、思いのほか主人公に共感して自分でもびっくり。

ゲイの人と独身女って、意外に共通点多いのねぇ~、と感心してしまいました。

今回も、ちょっとドキッとする描写が。

仲良くしている主婦のお家の、娘さんの結婚問題に関する親子の擦れ違いをかいま見た主人公筧氏。

複雑な思いを抱えて、同棲中のパートナーケンジ君に「お前今まで子供欲しいと思った事ある?」と聞きます。

すると、「えー、そりゃあるよ」とあっさり答えられ、心の中で、『俺はいままでいっぺんも子供欲しいなんて思ったことねーや』と意外な思いをかみしめる……。

ちなみに、私はケンジ君側なんですけどね。子供を欲しいと思ったことは何度かある。

でも、同じ独身友達でも筧氏みたいにまったく子供に関心ないひともいるわけで、それをこちら側からみたようで少し不思議な気分でした。

それと、考え方も似てるけど、今回の巻を読んで、私の料理レベルはケンジ君くらいだな~と、そっちにも共感!

筧氏が風邪でダウンしたとき、料理を作ってあげるのですが、献立の立て方と段取りがイマイチ。まるで自分を見ているよう!

筧氏のような手際の良さは、まだまだ私には遠いです

(もっとも、オーガニック食材の高価なのに愕然とするシーンはすごく共感しました!「あ、今日は木曜日だから卵97円の日だ、買って帰らなくちゃ」と言って、職場の先輩に「主婦か!」と突っ込まれたことがある……)

お互いを大切にして、美味しい料理を日々味わってる筧氏とケンジ君の日常はほのぼのと楽しそう。

でもその底に、仄かな将来への不安も横たわっている気がして、そこにも共感してしまうのです。

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猫と生きる人生。

2010-09-26 00:17:49 | アニメ・コミック・ゲーム

グーグーだって猫である〈2〉 グーグーだって猫である〈2〉
価格:¥ 1,155(税込)
発売日:2002-12
最近、『グーグーだって猫である』1巻を読み返してハマった私ですが、おくればせながら2巻、3巻も買いました。

1巻のラストの方にちょっと触れられていた卵巣腫瘍の手術についての顛末が、『人生の大晦日』という2巻冒頭の章に詳しく描かれ、なんとなく身につまされました。

私もひとり暮らしでこそないですが、おひとりさまで妊娠・出産経験がなく、婦人病のリスクは高そうだな~と思っているので他人事でなかった。

それにしても大島氏が人生の一大事に比較的落ち着いていて、毅然としているのには感心します。

おひとりさまこうあるべき、と、自分は無理かもしれないけど憧れます。自分の死にもしっかり向き合い、身の振り方やまさかの時のことをきちんとしておくのがマナーだなあ、と思ったりして。

もっとも、大島氏はまったくのひとりではなく、猫たちという家族がいるのでした。

しかも、最初は初めての猫故サバが去った後、グーグー1匹と始まった生活が、あれよあれよと家族が増えて……4巻以降も新しい猫との生活が描かれるのだなと思うと、楽しみやら、他人事ながらちょっと怖いやら……

そういえば、余談ですが読んでいてちょっと心にひっかかった描写がありました。

大島氏が退院したとき、グーグーがキャットシッターの方に愛想がいいのにショックを受けるのですが、ビー(2番目の猫《サバのぞく》)は意外と冷静で、拾い主が誰かを認識している。

そうして、大島氏は考えて納得するんですね。“ケガをして空腹で暗闇をさまよっている時、キャットシッターされたらだれだってその人を忘れない”

そのシーンで、5月に逝ったウチのあやを思い出したのです。あやは迷い猫だったのですが、1ヶ月たっても風邪が治らず、病院に連れて行きました。

そのとき病院が怖くてパニックになっていたのですが、「大丈夫だよ」といって撫でると、とたんに顔が穏やかになって、身を寄せてきたのです。出会ってたった1ヶ月でこんなに信じるものか、とちょっと驚いたのですが、あやもレスキューされたって感覚があったのだろうかと思いました。

閑話休題(それはさておき)。あんまりネタを割ってはいけないのですが、大島氏は3巻ではさらに大きな人生の転機を迎えます。それの遠因には、やっぱり猫たちの存在がある。

そうして、このシリーズではないのですが、大島氏が友達に桜の開花を追っての長い旅に誘われて、「サバがいるからいけない」と言い、友達が、じゃあずーっと先でもいい、と妥協したのに、それでも断って呆れられ、「それじゃ、結婚よりきつい束縛じゃないの!」と言われるシーンをふっと連想しました。

そう言われて、大島氏はなんと、その“束縛”ということに幸福を感じるのです。

人生はやっぱり、少し、不自由な方がいいのかな。人ってまったくの独りでは生きていけないものなのかな。

そんなことを思わされて、シンパシーと、多少複雑な思いとを同時に感じました。

このシリーズは5巻まですでに発行されているようで、大島氏の猫とともに生きる女の人生をまた追体験したい、と思っています。

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優しく、ほのかに寂しいまなざし

2010-09-17 00:56:22 | アニメ・コミック・ゲーム

スヌーピーのしあわせはあったかい子犬 スヌーピーのしあわせはあったかい子犬
価格:¥ 1,470(税込)
発売日:2008-07-24
シンさんのコメントで子どもの頃読んだ『ピーナッツ』が懐かしくなって、ちょっと取り上げてみました。

たぶん、この“スヌーピーのコミック”として有名なピーナッツブックを初めて読んだのは小学校5年生の時。

そのときはただ、可愛いキャラクターと谷川俊太郎氏の絶妙の訳の面白さにに魅かれただけだと思いますが、いつのころからか、キャラクターたちはストレンジャーの子どもたちなんだ、というのが心にひっかかるようになりました。

以前、海外ドラマが好きだった、ということを書きましたが、そういうドラマや、翻訳ミステリーなど読んでいると、アメリカが舞台のものは実にたくさんの民族が出てきて、この人は何系、ということが気になってきたのです。

民族間の対立や、特殊な習慣、宗教観が重要なテーマの作品も多くありますし、やはりその人物のルーツや背景を知ると、物語世界も奥行きが広がる気がして。

ピーナッツのこどもたちは、大半が移民の末裔なのかな、と思います。主人公チャーリー・ブラウンは作者シュルツ氏自身が投影されているとすれば、ドイツ系なのかな、とか。

ライナスとルーシーの姉弟の姓はヴァンベルト、オランダ系、だったかな?シュローダーもドイツ系?ペパーミントパティは、アイリッシュ系なのかな……。クラス1の優等生フランクリンは、アフリカン・アメリカンですよね。

そのせいなのかな、どこかアメリカ的なカラッとした明るさとは一線を画しているというか、優しく、ほのぼのしているけれど、その底に寂しさがあるように感じて、かえって共感するのです。

そして、少し話はそれますが、最近、やはり大昔に読んだ『しあわせはあったかい子犬』という本をふと思い出したりしたのでした。

ウチはまさに、“しあわせはあったかい猫”という生活だったので。

そのささやかなものに向ける優しいまなざしと、異邦人のようなちょっと突き放したような空気感に、いまだに魅かれてしまうのです。

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小さきものにときめく。

2010-08-09 11:15:06 | アニメ・コミック・ゲーム
床下の小人たち―小人の冒険シリーズ〈1〉 (岩波少年文庫) 床下の小人たち―小人の冒険シリーズ〈1〉 (岩波少年文庫)
価格:¥ 714(税込)
発売日:2000-09

前回の記事は、『借りぐらしのアリエッティ』の感想・シリアス編だったので、今回はミーハー編で。

劇場には母と観に行きました。

母はもともとジブリのアニメが好きで、近所の仲の良い奥さんと、『千と千尋の神隠し』に行ったこともあります。

でもそのときに、まだ観ていない私に、「ハクって男の子が出てきてね、綺麗な男の子。それがね……」と、止める間もなくオチまで語ってしまい、私はちと怒ったことがありました。

(母は物語のオチを語ってはいけない、ましてやミステリやサスペンスの犯人を先に言ってはいけない、ということをいまいち理解できないタイプなのです)

そのお返しをしたわけではないのですが、私は母に、事前に何も教えませんでした。

母はだから、ジブリの新作アニメ、という知識しかなく、どんな話かは全く知らずにいたそうです。

あとで言っていました。「紫蘇の穂を背負ってささっと動くものを見たとき、なんだろう、って思ったんだよ。小さい人だなんて、思いもしなかったから」

なるほど、母は作中の少年と同じ驚きを味わったんだな、羨ましいなと思ったけれど、母にしてみれば、教えてもらった方が良かったのかもしれない

ともかく、観た後、母は烏が憎たらしかったとか猫の声が気に入らないとか彼女らしいシンプル&ストレートな意見を言っていたのですが、ふたりで共通していたお気に入りポイントは、小人たちの使う道具や、ドールハウスの小物の可愛さ!

もともと、ミニチュアが私は非常に好きなのです。ミニチュアフードの本や、ドールハウスの本も持っている。小さなティーセットなんて、見ただけでキュンとする。アリエッティのお母さんの気持ちが分かります。

枕草子を少女の時に読んで、“小さきものはみなうつくし”という言葉に共感した私は、人形そのものは苦手だけれど、精巧なドールハウスは憧れのアイテムなのです。

でも、実際に観た子どもさんは、アリエッティに感情移入するから、彼女からみた様々なものの巨大さこそ、心を動かされたかもしれない。

私もそんな目で観たかったな。ちょっと残念。

でも、母に最後に、「どうだった?」と聞くと、にっこりして「面白かった!」と言っていたので、まずは満足でした。

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胸のなかの灯火

2010-08-09 00:12:34 | アニメ・コミック・ゲーム

先月のことになるが、ジブリの新作映画『借りぐらしのアリエッティ』を観てきた。

観終わって連想したのは、過去のジブリ作品、『もののけ姫』だった。

あの作品のラストを観たとき、自然の領域で生きるサンと、人間の側で生きるアシタカが“別々に暮そう”と言ったので、これが、宮崎駿氏の結論なのかな、と少し淋しく思ったのを覚えている。

人間と、自然の完全な共生は不可能なのだと。

今回の映画も、アリエッティは自然(人間が破壊するもの全般?)を象徴するものであり、人間の少年と触れ合いながら結局、その出会いが小さき人たちの生活の破壊につながってしまうのだから、やはり同じ結論なのだろうか、と思った。

(事前予告でも出てきたので書いてしまうが)少年翔は、“君たちは滅びゆく種族なんだ”と残酷な言葉をアリエッティに投げかける。

けれどすぐ謝って、“本当は死ぬのは自分の方なのだ”ともいう。

そうなのだ。翔が死に寄り添って生きているように、本当は人間も、滅びゆく種族なのだ。

故伊丹十三氏が以前対談の中で言っていた。“古代の人が作ったような芸術作品を、現代の人間は創れない。人類は進化の途上にいるのではなく、ゆるやかに退化しているのだ”と。

そんな言葉も思い出し、少しもの悲しい、寂しい映画だと思った。

けれど、何日か経って、もう一度考え直してみて、それだけではない、と思った。

最後に、翔はアリエッティに、ある言葉を言う。

それが、人間が失くしてはいけない大切なものを象徴しているのではないか、と思った。

誰かが、“サンタクロースは現代にたったひとつ生き残った魔法的存在”と言ったが、アリエッティたちもそうなのだ。人間が失くしてはいけない、大切な何か。

それは微かだけれどまだ、人間の胸の中で、小さな明るい炎のように燃えている、と思う。

余談だが、映画の中で心に残ったモチーフはもうひとつある。

ドールハウスだ。小人たちの贈り物として作られ、けれど結局、住む者のいない夢の家。

でも、ドールハウス愛好家が言っていた。“本当のドールハウスは、人形は存在しないものだ”と。

完璧すぎるその美しい家に住めるのは、追憶だけなのだ。

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