話が右往左往しますが例のトランシルバニア宮廷の「料理の科学」は非常におもしろい内容です。2例レシピを引用しておきます。
サーディンの調理法は次の通りです;
他の魚と同様に、サーディンを洗い、塩を振りかけます。ソースは次のように作ります。魚の塩を洗い流し、鍋に入れ、酢とワインを注ぎ、月桂樹を加えます。 月桂樹はトランシルバニアでは育たないので、トルコやイタリアから誰かに持ってきてもらいます。魚を調理する際には月桂樹を加えます。調理したらスプーンで取り出せるように鍋に入れます。スライスして提供する準備ができたら、煮汁は取り出さずにそのままにしておきます。牛肉や豚肉のように時間がかかりません。固まるのを待ちます。(煮こごりを作ります)
九つ目のナマズのグリーンソース和え
ナマズを下ごしらえしておく。ソースを作る。白いパンをワインに入れて、蜂蜜を加えてボイルする。ストレイナーを通す。タマネギ、パセリ、ホースラディッシュの葉、タラゴンを加えてすり潰す。ストレイナーを通してワインの中に入れる。魚についている塩を洗い、ソースの中に入れる。ブラックペッパー、ジンジャー、シナモンを入れる。野菜を入れて煮る。
(この料理書の、或いはこの時代の習いでしょうか。ソースは主材と一緒に煮た、或いはブロイルした結果出来た煮汁をソースとしていたようです。パンは小麦粉の製粉状態が悪くて粒が粗いので、一旦パンにした小麦粉をソースの材料として使っているのです。)
体液のバランスを健康維持の基本と定めたのは中世以降もヨーロッパ医学に大きな影響力を持った「サレルノ医学校」で、 『サレルノ健康規則』 の中に「医者は、食べ物として、いかなるものを、いつ、何処で、いかなる分量をで、何回与えるかを示さねばならない」 という文言がありますが、実際には浸透していなかった?のでしょうか。実に不思議です。何故でしょう。(ここで体液学説の説明を入れておきます。現在のヨーロッパ料理を考えるのに非常に重要だと思っているからです。少しお付き合い下さい。)
古代ギリシャ、ローマ時代にヒポクラテス(古代ギリシャ: BC460-370)によって提唱され、ディオスコリデス (古代ローマ帝国:BC40-90) のマテリア・メディカの影響を受け(体液学説に最も寄与したのは紀元前1世紀にギリシャ語で書かれたマテリア・メディカです。約500年後の6世紀にラテン語に翻訳され、9世紀にアラビア語に翻訳されました。)、ガレン (古代ローマ帝国 : 129-200) によってさらに体液医学理論は発展しました。
ところが、ローマ帝国滅亡のあと、体液医学理論は西ヨーロッパを離れ、ビザンチンと北アフリカに移りさらなる発展を遂げることになります。これらの地域でイスラム医学の影響を受けます。イブン・シーナ(アヴィケンナ:ペルシャ:980-1037)は、ガレンの体液医学をアリストテレスの哲学と統合し、アラビア医学にギリシャのヒポクラテスやローマのガレノスなどの医学を加え、さらにインド医学も取り入れて大書『アル・カヌーン・フィ・アル・ティッブ』(医学の正典)(Al-Qanun fi al-Tibb (Canon of Medicine) を完成させます。12世紀にはイタリアと南スペイン(かつてのアル・アンダルス)でラテン語に翻訳され、ヨーロッパ全体に急速に広まりました。
The Taqwim al-sihha for the son of Saladin (Salah al-Din), al-Malik al-Zahir (d. 1216), king of Aleppo. [British Library Or1347](大英図書館、東洋写本コレクション所蔵。1213年にサラディンの息子のアル=マリク・アル=ザーヒルのためにアラビア語で複製されたTaqwim al-Sihhaのコピー。)
11世紀に東方系キリスト教徒であるイブン・ブトラン(1001-1066)がバグダッドでイスラム医学を学んで280項目からなる体液の特性を表にまとめたのがタクウィーム・アル・シハ (The Taqwīm al-Sihha)であり、これをラテン語に翻訳写本したものが』 タクイヌム・サニタティス (Tacuinum Sanitatis) です。タクイヌム・サニタティスは北イタリアを中心にラテン語に訳されて写本となり、豊富な図版が添えられた「健康全書」となります。ここから体液学説が再び西ヨーロッパへと移入されるのです。
(先の綺麗な絵の付いたものがTacuinum Sanitatisで、下の幾何学模様と文字がThe Taqwīm al-Sihhaです。ラテン語訳は誰がしたのかは不明です。)
最初にラテン語に翻訳された時期は1200年中頃だとされています。その証がヴェネツィアのマルチャーナ図書館に所蔵されているラテン語写本No.315にあります。この写本は、「ここにタクイヌムの書物が始まります。科学愛好家である輝かしいマンフレッド王宮廷でアラビア語から翻訳されました」という碑文から始まっています(Biblioteca Nazionale Marciana, Venice, Latin No. 315, Cogliati Arano, 1976, p. 11)。
体液学説のその後は、2つの文化圏内で異なった方向に進んでゆきます。
東地中海、南西アジア、北アフリカの文化はすべて、ヒポクラテスとガレンの既存の理論を構築し、さらに発展させ、知識が進歩するにつれて新しい方向性を構築する傾向がありました。
一方、キリスト教ヨーロッパの文化は、人の魂の状態に焦点を当てていました。第四ラテラン公会議(1215)の教会法22では、「医師が病人のベッドサイドに呼ばれたとき、彼らはまず患者に司祭「魂の医師」を呼ぶよう勧め、患者の精神的健康が回復した後に、身体的医学の適用 (Tacuinun sanitatisの指示に従った処方) が有益になる。つまり、原因(罪)が除去されると効果(疾患)が消えるとされ、これらの指示に従わなかった医師は破門されることがある。」と述べています。祈り、巡礼、聖遺物によって病状の改善がもたらされると考えていました。
つづく