年のせいか、最近、やたらと子供の頃を思い出す。
戦後の食糧難で我が家でも鶏を数羽、飼っていた。
祖母が知り合いから貰ってきた有精卵を孵化して育てた鶏だった。
その時に、鶏は21日間で孵化することを学んだ。
小学校に行く前に鶏の餌やりが私の仕事だった。主に菜っ葉類を刻んで
糠に混ぜて与えていた。私は南九州の祖父母の家に預けられていたのだが、
霧島山麓の冬の寒さは厳しく、冬の餌作りは冷たくて嫌な仕事だった。
私の手はしもやけで赤く膨らんでいたのだ。
それでも祖母が作ってくれたお弁当には、甘くて美味しい炒り卵が
たっぷりと詰まっていた。
初夏のある日のこと、私は祖母の前に正座させられていた。
鶏小屋の卵がなくなったが、あなたが食べたに違いないと言うのだ。
勿論、私には身に覚えがない。生卵をつまみ食い、否、飲むなんて
そんな野蛮でお行儀の悪いことをするなんて。
否定しても祖母は頑として聞き入れない。
祖母は島津藩士の娘で誇り高い人だった。
私には、昔、近所の家の青い柿の実を食べた前科があったからであろう。
その実は渋くて食べられたものではなかったが。
その時にも、こっぴどく叱られてお腹にお灸をすえられた。
食べ物のない時代で、私はいつもお腹を空かせていたのであろう。
それとも元来、食いしん坊だったのかも。
鶏小屋は裏山に面していた。小屋の側に物置があり、その柱に青大将の
脱皮した抜け殻が絡まっていた。私は卵を盗んだのは青大将だと思ったが
祖母は口答えと言い訳を許さない厳しい人だった。
結局、祖母に誤解されたまま、罰として長時間、正座させられたのだ。
今でも思い出すと悔しくなる思い出である。
鶏にはいろいろと思い出がある。
母方の叔母は小学校の教師で独身を通した。
この叔母も、私には厳しく恐い存在だった。
その叔母がメリーと名前をつけて鶏を飼っていた。
鶏小屋は低い土地にあり、大雨で水浸しになりメリーさんは溺れて
死んでしまったのだ。
後年、叔母を訪ねたとき、空っぽの鶏小屋の前で気丈な叔母が涙ぐんでいた。
私を育て、可愛がってくれた人たちは、もう、いない。