めんどりおばあの庭

エッセイと花好きのおばあさんのたわ言

めんどりのお話し

2014-03-10 19:55:07 | 日記

年のせいか、最近、やたらと子供の頃を思い出す。

戦後の食糧難で我が家でも鶏を数羽、飼っていた。

祖母が知り合いから貰ってきた有精卵を孵化して育てた鶏だった。

その時に、鶏は21日間で孵化することを学んだ。

小学校に行く前に鶏の餌やりが私の仕事だった。主に菜っ葉類を刻んで

糠に混ぜて与えていた。私は南九州の祖父母の家に預けられていたのだが、

霧島山麓の冬の寒さは厳しく、冬の餌作りは冷たくて嫌な仕事だった。

私の手はしもやけで赤く膨らんでいたのだ。

それでも祖母が作ってくれたお弁当には、甘くて美味しい炒り卵が

たっぷりと詰まっていた。

初夏のある日のこと、私は祖母の前に正座させられていた。

鶏小屋の卵がなくなったが、あなたが食べたに違いないと言うのだ。

勿論、私には身に覚えがない。生卵をつまみ食い、否、飲むなんて

そんな野蛮でお行儀の悪いことをするなんて。

否定しても祖母は頑として聞き入れない。

祖母は島津藩士の娘で誇り高い人だった。

私には、昔、近所の家の青い柿の実を食べた前科があったからであろう。

その実は渋くて食べられたものではなかったが。

その時にも、こっぴどく叱られてお腹にお灸をすえられた。

食べ物のない時代で、私はいつもお腹を空かせていたのであろう。

それとも元来、食いしん坊だったのかも。

鶏小屋は裏山に面していた。小屋の側に物置があり、その柱に青大将の

脱皮した抜け殻が絡まっていた。私は卵を盗んだのは青大将だと思ったが

祖母は口答えと言い訳を許さない厳しい人だった。

結局、祖母に誤解されたまま、罰として長時間、正座させられたのだ。

今でも思い出すと悔しくなる思い出である。


鶏にはいろいろと思い出がある。

母方の叔母は小学校の教師で独身を通した。

この叔母も、私には厳しく恐い存在だった。

その叔母がメリーと名前をつけて鶏を飼っていた。

鶏小屋は低い土地にあり、大雨で水浸しになりメリーさんは溺れて

死んでしまったのだ。

後年、叔母を訪ねたとき、空っぽの鶏小屋の前で気丈な叔母が涙ぐんでいた。


私を育て、可愛がってくれた人たちは、もう、いない。






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