アフガンでキリスト教改宗者を逮捕・起訴=欧米が非難の大合唱 (時事通信) - goo ニュース
イラク戦争に先立って、アメリカの手によって自由と民主主義へと向かってタリバン政権から解放されたはずの新生アフガニスタンで、キリスト教に改宗した男性が逮捕され起訴されたというニュースがあった。
このニュースが明らかにしている真実とは何か。それは、非キリスト教国民の間に民主主義国家を建設することの困難さである。
宗教は、国民や民族の精神的な基盤である。アメリカには、特にネオコンと称される人々は、中東の国々に対して民主主義の使徒として働こうとしている人物が多いが、その困難を彼らがどれほど深刻に理解しているだろうか。イラクでは、国民議会の開催を巡って今も紛糾している。
民主主義の導入は、もちろん、その民族や国民にとっては政治的に解放されることを意味する。しかし、アフガンのこの男性がキリスト教に改宗しても、「国家」はそれを認めようとはせず、欧米諸国の助命と嘆願によってかろうじてイタリアへの亡命が認められたに過ぎない。
この例に見るように、国家のみならず、国民や民族が宗教的に解放されないまま、政治的に解放されることがどれほどに茶番に等しいことかが分かる。宗教改革も体験せず、自由についての意識も自覚も不充分なアフガニスタンやイラクの国民や民族が、民主主義国家を創立し運営してゆくことの困難がここにある。
アメリカのブッシュ大統領は、いとも気楽に「中東の民主化」を口にするように思える。そして、彼が好んで口にするのは、旧敵国天皇制日本のアメリカによる民主的な改造であり、そのモデルの象徴的な人物としての小泉首相である。イラクの民主化は戦後日本に範をとるという。
しかし、小泉首相の靖国神社問題への対応に象徴されるように、国民の自由について自覚はまだ未熟である。イラクやアフガニスタン同様に、宗教改革を経験していない日本人の政治的解放が、どれほどの悲喜劇をもたらしているかは、戦後六十年の今日に至るまで、国民自身の手による民主主義の実現が道半ばにある現代日本の現状を見ても分かることである。宗教改革を主体的に実現しなかった民族は、自由や民主主義をさほど切実に要求しない点においても、藤原正彦氏に見られるように、日本人においても、アフガン人もイラク人も大した差異はないという現実がある。