信仰(信念)と知識(科学)──宗教と科学──の関係は、ヘーゲルにとっても大きな問題だった。カントに代表される啓蒙哲学が、信仰の問題を知識の対象から、物自体として、認識の対象から外し、信仰の問題を認識できないものとしてしまったから。その結果、近代の信仰は、知識を回避し、信仰には単なる抽象の空虚な主観的な無の確信しか残されないことになった。ヘーゲルはこれに不満だった。
なぜ、このようなカントの啓蒙哲学が生まれたか。それは、ルターの宗教改革の必然的な帰結だといえる。なぜなら、ルターの「信仰のみ(sora fides)」を原理とする信仰は、ただ信仰者の良心による是認のみという主観的な問題に還元されることになったから。その信仰は神を個人の神として、主観的な精神のなかにのみ認められるものにしてしまった。そこでは信仰者の自己の信仰の是非は教会の是認ではなく、理性による確証に求めざるを得なかった。こうしてルターの信仰のみの原理が、カントの主観性の哲学になって現われたのである。近代哲学がプロテスタント国民から生まれる必然性もここにある。
しかし、カントは信仰の理性による把握の不能を彼の主観的観念論によって、不可知論のよって認識の可能性を否定してしまっただけだった。
この点を批判したのがヘーゲルである。彼は、本質と現象をそれぞれ媒介なきものとするカントの見方を悟性的として退け、現象の総体のなかに本質が認識されるという弁証法の認識論を主張した。ヘーゲルにとって神は認識できないがゆえに信仰されるのではなく、理性によって認識できるものであり、むしろ、神は理性そのものでもあった。
ヘーゲルはまた、信仰は知識と対立するものではなく、信仰がじつは知識の特殊的な形態に過ぎないと言うのである。ここから、信仰の知の特殊性とはなにかの解明へと、信仰の概念的な認識に向かうことになる。そして、この道こそが宗教を真に克服する唯一の道である。ヘーゲルにとっては、それが哲学することに他ならなかった。ただ哲学は宗教を内容においてではなく、形式においてのみ克服するのである。