オクラの花
福岡正信氏の自然農法
福岡正信氏は「自然農法」と呼ばれる独自の農法の実践者、主唱者として知られている。自然農法とは、「耕さず、田植えをせず、直接モミや種を蒔いて、米と麦の二毛作をし、化学肥料も施さず、除草作業もせず、農薬も使わない」という極めて簡単な農法である。肥料の代わりにワラを敷き、耕作する代わりにクローバーの種を蒔く。
もちろん福岡正信氏もはじめから自然農法の実践家であったわけではない。氏は岐阜の高等農業学校を卒業し、植物病理の研究から出発して、税関で植物防疫に従事している。だから福岡氏の自然農法にはその前提に植物学という近代科学の素養があるといえる。しかし、若いころ自身の病気をきっかけに現代の科学について根本的な不審を抱くようになった。
おそらくこの頃に、福岡氏は、荘子の「無為自然」、「無用の用」の境地を直観的に体得されたのだろうと思う。自然は無為にして完全であるから、荘子が指摘したように、ひとたび人間が道具を作り、井戸水を汲み上げるのに滑車を使うように、分別智を働かせて道具を使うようになるともはや元には戻れない。もともと完全なものを一度分断、分析し始めると、すべての肯定の裏に否定が現れて、パラドックスに陥る。福岡氏はこのことを直観的に悟られたのだろう。
福岡氏は、若いときに体験した自身のその直観の正しさを証明すべく、人為を加えない農法を、自然農法を生涯に追求しようとしたのだ。無為自然こそが絶対的な真理であることを直観した若き福岡氏は、「何もしない農法」はいったいどのようにして可能か、という問題を生涯をかけて追求したのである。それが氏の自然農法だった。そして、やがて到達したのが、冒頭に述べたような、米麦不耕起連続直播、無肥料、無農薬、無除草の農法である。しかし、この自然農法も永遠に研鑽途上にあって、完成されたわけではない。
現代の石油エネルギーを使って行われる現代農業が多くの問題を抱えていることは語られはじめてすでに久しい。それらは温暖化や砂漠化を招いている。現代農業は商業的な大量生産を目的とするから、そのために農薬や化学肥料を使わざるをえない。そこには多くの矛盾が生じている。また、これまで日本の農政は、国際分業論に立って減反政策を進めてきたが、そのため食料自給率の低下を招く結果になった。そして今、世界的な食糧危機の到来を予感してあわてふためくことになっている。肯定の裏にかならず否定が生まれてくる。これは何も現代の農業だけに限られない。現代物理化学の粋を集めて応用される原子力発電においても、また、遺伝子工学の応用によって遺伝子の改造から治療をはかろうとする現代最先端医学の領域においても同じである。すでに人類はやがてそれらの行き着く先に漠然とした不安を感じている。悟性科学には矛盾を克服できないことを予感しているからである。
要するに、そこにあるのは分別知にもとづく、現代科学のもたらす矛盾である。「無の哲学」の見地からこうした近現代科学の将来を福岡氏ほど明確に予見していた人はいないかもしれない。それは、人為は自然に必ず劣るという福岡氏の確信であり世界観によるものである。福岡氏においては、自然は神と同等と見なされている。氏にとって、自然は完全であり、したがって一切無用である。有限の存在である人間の見て行う世界は、完全なものを分解し分析した部分でしかないものであり、必ず不完全なものである。そこで、氏はすべての人為を捨て、完全な自然に同化して、自然に生かされる生き方の道を歩むことになる。
一切無用として出来うる限り人為を廃し、自然の豊かさにしたがって自己を生かそうとする福岡氏の自然農法は、やがて、とくにその搾取によって土壌が疲弊しきった欧米の農業家の着目するところとなったようである。日本はそれでも自然がまだ豊かであるから、行き着くところまで行き着いておらず、福岡氏の自然農法に対して切実な欲求をもつに至ってはいないのかもしれない。その点でも、福岡氏の農法は日本よりも欧米で受け継がれてゆくのだろう。
福岡氏の自然農法は「無の哲学」に基づいたものである。それは人間の知識や科学を本質的に否定するものである。氏の思想と哲学は、物や人智の価値を否定する。だから現代人や現代社会の立脚点とは根本的に相容れないものである。それはちょうど、「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず。野の百合はいかに育つかを見よ。労せず、紡がず。さらば、汝ら何を喰い、何を飲み、何を着んとて思い煩うな」と命じたイエスの生き方と同じく、現代人は厳しく重荷に感じて、もはや誰一人として実行できないでいるのと同じである。おそらく、福岡氏の自然農法の真の継承者はいないのだろうと思う。
しかし、現代科学が、そして現代農業が行くところまで行き着いて行き詰まったとき、無の哲学から現代文明を批判した福岡氏の自然農法は、未来の農法として復活するかもしれない。そのとき福岡氏の自然農法は未来のあるべき農法として、人々にとって灯台の役割を果たすだろう。しかし、それは現代人の価値観が根本的に転換するときである。
福岡氏は理想の生活を次のように描いている。
「無智、無学で平凡な生活に終始する、それでよかった。哲学をするために哲学をするヒマなどは百姓にはなかった。しかし農村に哲学がなかったわけではない。むしろ、たいへんな哲学があったというべきだろう。それは哲学は無用であるという哲学であった。哲学無用の哲人社会、それが農村の真の姿であり、百姓の土性骨を永くささえてきたのは、いっさい無用であるという無の思想であり、哲学であったと思うのである。」 (『自然に還る』P204)
「小さな地域で独立独歩の生活をする。家庭農園ですべての事柄が片づいてしまう。
自然農園づくりが、外人にとっては、もう理想郷(ユートピア)づくりになっている。・・オランダの牧師さんが、家庭の芝生を掘り返し、家庭菜園を作り、そこにエデンの園を見出す。」 (P297)
「一人10アール・一反ずつの面積はあるわけだから、みんなが分けて作って、機械を使わずに、そのなかに家も建て、野菜から、果物、五穀を作って、周囲の防風林代わりに、モリシマアカシアの種子を毎年一粒ずつ播くか、苗を一本植えておけば、十年後は石油が一滴もなくても、年間の家庭用燃料は十分間に合う。
ですから、自然農法は、どちらかというと、過去の農法ではなくて、未来の農法だとも言えるんです。田毎の月を見て、悠々自適ができるような楽しめる百姓になる。家庭菜園即自然農法即真人生活になるのが、私の理想です。」 (P291)
このような福岡氏の理想は確かに共感できる点は多い。しかし、福岡氏に接した多くの人が語るように、とくに西洋人が多く語るように、氏の自然農法には共感できるけれども、氏の「無の哲学」に共感できないと言われる。私も同じである。なぜなら、福岡氏の「無の哲学」にかならずしも同意しないからである。あえて言うなら、私の立場は「無の哲学」でもなければ「有の哲学」でもなく、「成(WERDEN)の哲学」であるから。これはヘラクレイトスの万物は流転するという世界観でもある。
本当の自然とは何か。私は福岡氏の自然農法自体をかならずしも自然とは見ない。逆説的に言えば、福岡氏の「自然農法」自体が不自然農法である。むしろ、深耕、農薬、化学肥料などの人為、不自然こそが自然であるとみる立場もある。
当然のことながら多くの欠陥を抱えた現代農業は、いずれ克服されてゆくべきもので、それは現在の科学が発展途上にある未完成品であるというにすぎない。それは悟性的科学であって、理性的科学ではない。ただ理性的科学は、ゲーテのいう「緑の自然科学」に近く、この観点からは、福岡氏の自然農法は高く評価すべき点をもっている。理想は近くあるとしても、しかし、福岡氏の「無の哲学」は、否定を媒介にしない。この点に根本的な差異がある。福岡氏の「無の哲学」は直観的で、何より否定という媒介がない。
また、福岡氏の思想と哲学の限界としては、氏の自然農法には国家や地域社会、市民社会との関係を論じ考察することがあまりにも少なかったと思われることである。要するに媒介がなかった。個人的には私は福岡氏が理想としたような皆農制を基本的には支持する立場である。しかし福岡氏は、民主国家日本において、皆兵制については論じることはなかった。しかしいずれにせよ皆兵制や皆農制などの問題は、すでに国家論や憲法論に属する議論である。それらの問題はまたの機会に論じることがあると思う。
ここ十年ほど、福岡正信氏の動向はほとんどわからないままだった。と言うのも私は氏の「自然農法」や「無の哲学」のそれほど熱狂的な支持者でも何でもなかったからで、長い間忘れ去ってしまっていたのである。ただ、昨年の秋の暮れくらいから、たまたま縁があって山で家庭菜園のような真似事を始めることになった。それはたとえままごと遊びにすぎないとしても、農に、土や野菜や果物と直接にかかわり始めているといえる。それこそ各個人の価値観の問題で、何に価値や歓びを見出すかは人それぞれであるとしても、自分で作った野菜や果物を食べるのは、それなりに楽しい点もある。また、「自然」により深くかかわる歓びもある。自然や農業についてよく知るためにも、今にして思えば、一度くらい機会を作って、福岡正信氏を訪問しておくべきだったのかも知れない。
クローバー草生の無耕起直播の農法、プロの農家からは実現不可能に見える「不耕起、無化学肥料、無消毒」の自然農法は見向きもされず、農業には無縁の都市生活者の素人にしか関心を引き起こさない。しかしだからと言って、そこにまったく可能性がないわけではない。福岡氏の「自然農法」はむしろ「プロ」の農業者を無くす試みとも言えるからである。現代日本のプロの農業生活者の基盤である農村の多くが崩壊の危機にあると言われる。おそらくそれは、現代人や現代社会が福岡氏の「無の哲学」へと価値観を根本的に変換できないためである。しかし、もしこの前提が崩れれば、福岡氏の自然農法の実行は可能となるかもしれない。問題は、この「不可能」な前提が崩れる要件はあるか、あるとすればそれは何か、である。
去る十六日、私にとっては長い間動静が途絶えていた福岡正信氏の訃報が伝えられていた。享年九十五歳。また日本人らしい日本人が失われてゆく。福岡氏の自然農法は、「無の哲学」そのものから生まれたものである。それゆえにこそ、氏の農法は、おそらくこの日本でよりも、欧米においてこそ真に受け継がれ開花して行く宿命にあるのかもしれない。
6/6 自然農法60年の歩み「粘土団子世界の旅」 福岡正信
むしろ、本物の農民の物の考え方のほうが自然で、より哲学的だと思います。
コメントありがとうございました。
あなたの気楽に書かれたコメントに、どれだけ真剣に対応すべきなのかもわかりませんが、とりあえず、お礼としてもあなたのコメントに感じた点、疑問だけでも述べておこうと思います。
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哲学というのは、論理に矛盾があってはいけない
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本当にそうでしょうか。矛盾というのは、「あってはいけない」というような善悪、道徳のレベルの問題ではなく、人間をも含めて、社会、自然、世界など変化し流転する主観、客観の世界に本質的に存在するものではないでしょうか。
ですから、全能ではない哲学者の思想哲学にも、矛盾は存在してもおかしくはないと思います。また、その矛盾を解決しようとして、哲学も進歩してゆくのだと思います。
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むしろ、本物の農民の物の考え方のほうが自然で、より哲学的だと思います。
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何をもって「本物の農民」、また「哲学的」と言うのかにもよると思いますが、一般の農協の組合員らの平均的な農民のことをイメージされておられるのであるとすれば、現代農業一般の、日本と世界の農業の現状について、あまりにも無知、無自覚であるように思います。そうであるとすれば、福岡正信氏の仕事と生涯の価値について、とうてい正しく評価できないのではないでしょうか。
私は、学問もなく無知蒙昧な者ですが、実に単純な論理矛盾してる哲学を奉ずる哲学者が、小学生に一言質問を喰らったら、足元をすくわれるんじゃあないでしょうか。そんなにモロイ「哲学」なんてあるんでしょうか?
私は無知ですが「そら」さんの言う「福岡正信氏の仕事と生涯の価値」って、どんな処なんでしょうか。どうか、教えてください.
「福岡正信氏の仕事と生涯の価値」についての、私の「主観的」な「価値観」にもとづく評価については、――その正否についてはとにかくですが――上記の私のブログの記事から、よく読んでいただければ、おおよそのところは理解していただけると思います。
「福岡正信氏の仕事と生涯の価値」そのものについての評価や、それについての私のブログ記事での大雑把な「認識」についても、批判や評価は当然にさまざまにあると思います。
ただ、あなたのコメントとブログから、2008-08-21の記事「謎の「自然農法家』 福岡正信氏死去。その農法は本物だろうか??」を読ませていただいたかぎり、あまりにも無造作に、「福岡正信氏の仕事と生涯の価値」を切って捨てられているようで、そこから果たして何も学ぶ点はないのだろうかと疑問に思った次第です。
あなたにとってはそうなのかも知れませんが、少なくとも私にとっては、福岡正信氏は「浅はかな「 農法 ?」」の「謎の農法家」でもなければ、まして「詐欺商法」でも「カルトなどの新興宗教」でもありませんでした。
福岡氏の「自然農法」の「自称信奉者」は多くいるかもしれませんが、彼らのそれと福岡氏自身のそれとは区別しなければ、福岡氏を正当に評価することにはならないと思います。むしろ「カルトなどの新興宗教」を頭から拒絶する人の中に、「カルトなどの新興宗教」的な人も少なくないようにも思います。
私のブログ記事でも触れましたが、福岡氏の「自然農法」には一人の真正の後継者を見出せていなければ、一般の農民のみならず、福岡氏自身の身内の人にすら受け継がれていないようなのです。問題も課題もここにあると思います。
だから福岡氏の「自然農法」は、事実としては「現代農業」一般に対する「批判」や「告発」の問題提起としての意義だけにとどまったように思います。そこに、福岡氏の「仕事と生涯」や「自然農法」の意義も「限界」もあったのだと思います。しかし、それは福岡氏の限界なのか私たち現代人や現代社会の限界のためなのかどうかは今の私にはよくわかりません。
最後に、あなたの考えられておられる「本物の農民」や「哲学的」とはどういうことなのか、おおよそのところでも教えていただければうれしいです。
無学蒙昧な私ですが、そらさんの記事を何度か読ませて頂き、深い教養と広大な知識をお持ちの方なのだなあと感服いたしました。これからも、記事を読ませて頂きたいと思いました。
>最後に、あなたの考えられておられる「本物の農民」や「哲学的」とはどういうことなのか・・・<
はい、「本物の農民」とは、そらさんも書いていらっしゃる「プロの農家」程度の意味です。家族規模の普通の農家程度の意味です。商業的で雇用労働力を含む「農事法人」を含みません.日本のそらさんの記事の、下から二段落目、「クローバー草生の無耕起直播の農法、プロの農家からは実現不可能に見える」ある一般的な意味の農家です。
「哲学的」というのは、実用的と実践的、現実的なものの考え方という意味の「哲学」です。所謂、プラグマテイック(合理的な実用主義)的なものの考え方をしているという意味です。(農家の方って、すごく実用的で現実的な考え方なので、いつも感心しています。)
農家の人たちが考えてる(自然)は、例えば、鶏でも牛・ウサギ・ヤギでも、野菜や穀物でも、生まれたばかりの雛や、子牛、子やぎも、また、野菜なら、種まきから幼苗の段階から、それ相応の世話をしてやらないと、うまく育たない事を自然というか、当たり前、と捉えていることです。
「苗半作」と言うほど、農家は苗作をまず大切にし、さらに各成長段階で、適切な世話をしてやって、はじめて良い収穫があると言うことを経験上、熟知しています。
福岡さんの「自然」農法は、こうした世話をあんまりせずに作物を育てようというのですから、結局、なかなかうまくは行かなかったのではないでしょうか。
そもそも、今の栽培種の稲は、人間が野生稲の状態から、長い長い年月をかけて、人為的に改良したものであり、純自然(野生)のものではないからです。
イエスのおっしゃる「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず。野の百合は、いかに育つかを見よ。」という言葉には、本当にいろいろな真理を含んだ素晴らしい思想の発露と改めて思います! 「いかに育つか見よ。」金言と感じます.
なぜなら、野生の鳥でも、親は雛を一生懸命育てするのを前提としますし、野辺の百合は、実にたくさんの種子のうち、花を咲かせるのは、極々々、僅か。。。(百合の種をご存知でっすよね.透き通った薄いシート状の種が、千単位入ってます。)それだけ、自然の状態では、花を咲かすまで育つには、野生の百合でさえ、マレなのではないでしょうか?。。。。
そらさん、養鶏場の鶏をご存知でしょうか?雛は、親の愛情も知らず、人間が餌と水だけ与え育てた結果、どうなったか。。。
ヒナたちは、猛烈な虐めとケンカで殺し合いをするんです。それを防止せんが為に、養鶏場では、ヒナの嘴の先を切り落とすのが、常識なんです。
なんだか、最近の若い人の秋葉原だのあちこちで起きる、無差別殺人事件の犯人に、似ていると思われませんでしょうか?
「カルト」の類は、グーグルのブログ検索で検索したところ、蛍光色を多用したすごいブログが、たくさん出てきましたので驚きました。
そのようなブログには、TBやコメントを送りませんでしたので、ご安心くださいませ.
>最後に、あなたの考えられておられる「本物の農民」や「哲学的」とはどういうことなのか・・・<
はい、「本物の農民」とは、そらさんも書いていらっしゃる「プロの農家」程度の意味です。家族規模の普通の農家程度の意味です。商業的で雇用労働力を含む「農事法人」を含みません.そらさんの記事の、下から二段落目、「クローバー草生の無耕起直播の農法、プロの農家からは実現不可能に見える」ある一般的な意味の農家です。
ブナ林がすばらしかったです。当地にはそんな雄大な自然はありません。感動しました。興味や関心に重なるところがあるようにも思います。また再訪して、いろいろ学ばせていただこうと思います。どうぞよろしく。
この記事に『環境ecoブログ』というブログを主催されている、blackcoffeeさんから、トラックバックされましたが、
http://blc.blog.shinobi.jp/Date/20080907/1/
私はこの方にコメントをお送りしたこともないので、何かのまちがいではないかと思います。