1915(大正04) 27歳 章子は安藤茂九郎と離婚し上京 頼るは平塚らいてう らいてう(以下、雷鳥と記)は1911(明治44)年、雑誌「青鞜」を創刊していた
文学志向の女性たちは「青鞜」を愛読し、章子も大分時代からその一人
章子は雷鳥の2歳年下だった
雷鳥を訪ねた頃、雷鳥は若いツバメの子共を妊娠中だった
ツバメの名は奥村博史(洋画家)で雷鳥より5歳年下
奥村が病弱で看病や育児が必要などで、「青鞜」の編集権を伊藤野枝に譲る
この頃の野枝は、前夫の辻潤と別れ「青鞜」編集の中心女性になっていた
大杉栄と知り合い、恋愛中の頃でもあった
江口章子を追いかけると、人との出会い、繋がりがキリなく広がってゆく
その伊藤野枝の作品、読んだことがなかった
いい機会なので、青空文庫の作品を幾つか読んだ うち3篇を紹介
青空文庫でもう1篇 これは時雨の「美人伝」中の1篇
寂聴の本には、江口章子は伊藤野枝をライバル視していたような記述がある
章子と時雨との交友はどうだったのだろうか?
さて、野枝に「青鞜」を任せた雷鳥夫妻は、幼児と章子共々世田谷に転居
その隣家では、山田夫妻(嘉吉・わか)が語学・社会学の学習塾を開いていた
その塾で仏語・社会学を学ぶ大杉栄の紹介によるものだった
寂聴本の、山田夫妻の話が面白いので、以下に要約してみた
"わかは神奈川三崎の貧農の出
十九歳で出稼ぎに米国へ行くが、気がつけば淫売窟へと堕ちていた
嘉吉は東京生まれ、家は貧しく丁稚奉公,鋳掛職人などで働いた
彼も一旗揚げようと渡米、肉体労働をしながら苦学する
英仏独、スペイン語などをものにして語学塾を開き、傍ら社会学も勉強する
わかは淫売窟から新聞記者と逃げ出しサンフランシスコへ行く
しかし自分をまた娼婦にしようとする彼から逃げ出す
娼婦救出のミッションハウス(キャメロン・ハウス)へ逃げ込む、
わかはハウスから英語を習うため嘉吉の塾に通う
嘉吉はわかとの出会いに宿命的なものを感じ、全力で彼女を育て教える
やがて二人は結婚、二人は日本へ帰り嘉吉は語学塾を開いた"
そこへ大杉栄がフランス語や社会学を習いに通ったというわけ
以下はまた寂聴本からの私流記述
手狭な平塚家に、章子という居候がいることを苦労人の山田夫妻が心配
「うちもお手伝いがいると助かるわ 章子さんに来てもらっていいかしら?」
「どうする章子さん?」
「先生ばかりにご迷惑かけられないし・・・わたしも自立しなくては」
というわけで章子は女中として山田家に行く
しかし、章子は江口家のお嬢さん育ち、最初の夫も女中を雇う資力はあった
料理、掃除、洗濯など家事の切り盛りなど出来る筈がない
山田嘉吉という人がマメな人で、料理や家事など彼の方がはるかに上手い
それに人の好き嫌いが激しく、伊藤野枝とは合わなく章子も嫌われたのだろう
程なく山田わかを通じて、女中の章子不要の断りがあった
そういう章子を雷鳥は「実生活には有能ではなく、詩人肌ののんびりした人」
と書いている
雷鳥も面倒見のよい女性らしく、章子を放り出す事はしなかった
もっとも翌年、章子は白秋と同棲を始め、雷鳥は厄介事?から解放された
今日は文字数が多くなったがこれまで。
明日またお会いしましょう
[Rosey]