遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

詩人あの人この人~その1「中原中也」#4

2023年08月03日 | 読書

ナンキンハゼ 撮影日:2014/08/06 場所:近くの親水公園


今日は、長谷川泰子と中原孝子、別々にその後の人生を辿ってみる
それでは先ず長谷川泰子から始めよう

 1936(昭和11) 泰子32歳(以降、名は省略) 
 実業家(石炭商)の中垣竹之助と結婚、茂樹も中垣の子として入籍する
 泰子は田園調布に住み優雅な暮らし・・・クシーで千葉までゴルフに行く等
  
1945(昭和20)  41歳
 敗戦により中垣の事業が不振、泰子の潔癖症も再発、別居状態になる
 泰子の生活は困窮、知人から借金、横浜での岩海苔取りなどで糊口を凌ぐ
 宗教に救いを求めて世界救世教に入信する

1959(昭和34) 55歳
 救世教本部のある静岡県熱海市に転居する

1961(昭和34) 57歳
  東京に戻り、日本橋でビルの管理人となり12年ほど務める

1974(昭和47) 70歳
 聞き書きによる『ゆきてかへらぬ—中原中也との愛』を出版

1976(昭和49) 72歳
 ドキュメンタリーを交えた実験映画『眠れ蜜』に長谷川泰子名で出演

1993(平成05)
 老人ホームで死去。享年88歳。

長谷川泰子の情報は思った程なく、年譜はウィキメディアに拠った。
情報が少ないのは「中也を捨てた女」として悪名が高かったせいか?
にしても、敗戦後の40数年は、泰子にも過酷過ぎた人生に思えるが・・・

映画出演の頃の写真~この時の映画を探したが観ることはできなかった~

ここで、上京したばかりの中也と泰子が住んだ街を歩こう
といっても地図上の散歩、二人は中野・高円寺界隈のアパートに住んだ
この街で、泰子は中也と別れ、小林秀雄の愛人となったわけだ


さて、中也死後の妻・孝子はどうしたのだろうか。
その前に、中也の父母、兄妹を紹介?しよう。

1918(大正7)年頃の中原一家 次男の亜郎は前々年に死去した

中也と孝子の結婚は、わずか5年ほど
その短い間に、長男文也・中也・次男愛雅失くし、孝子は一人になる
義母(中也の母フク)は、明るく気立てが良い孝子を好いていた

フクは実家のある湯田に孝子を連れて戻り一緒に暮らす
その時の孝子はまだ25歳の若さ
初めは泣き暮らす孝子に、フクは茶、華、箏などの習い事を薦めた

フクは実の親のように世話を焼き、孝子も次第に元気を取り戻してゆく
彼女を中原家の養女として迎へ、中也没して十数年、孝子を他家へ嫁がせた

それでは明日またお会いしましょう

[Rosey]

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