ナンキンハゼ 撮影日:2014/08/06 場所:近くの親水公園
今日は、長谷川泰子と中原孝子、別々にその後の人生を辿ってみる
それでは先ず長谷川泰子から始めよう
1936(昭和11) 泰子32歳(以降、名は省略)
実業家(石炭商)の中垣竹之助と結婚、茂樹も中垣の子として入籍する
泰子は田園調布に住み優雅な暮らし・・・クシーで千葉までゴルフに行く等
泰子は田園調布に住み優雅な暮らし・・・クシーで千葉までゴルフに行く等
1945(昭和20) 41歳
敗戦により中垣の事業が不振、泰子の潔癖症も再発、別居状態になる
泰子の生活は困窮、知人から借金、横浜での岩海苔取りなどで糊口を凌ぐ
宗教に救いを求めて世界救世教に入信する
1959(昭和34) 55歳
救世教本部のある静岡県熱海市に転居する
1961(昭和34) 57歳
東京に戻り、日本橋でビルの管理人となり12年ほど務める
1974(昭和47) 70歳
聞き書きによる『ゆきてかへらぬ—中原中也との愛』を出版
1976(昭和49) 72歳
ドキュメンタリーを交えた実験映画『眠れ蜜』に長谷川泰子名で出演
1993(平成05)
老人ホームで死去。享年88歳。
長谷川泰子の情報は思った程なく、年譜はウィキメディアに拠った。
情報が少ないのは「中也を捨てた女」として悪名が高かったせいか?
にしても、敗戦後の40数年は、泰子にも過酷過ぎた人生に思えるが・・・
映画出演の頃の写真~この時の映画を探したが観ることはできなかった~
ここで、上京したばかりの中也と泰子が住んだ街を歩こう
といっても地図上の散歩、二人は中野・高円寺界隈のアパートに住んだ
この街で、泰子は中也と別れ、小林秀雄の愛人となったわけだ
さて、中也死後の妻・孝子はどうしたのだろうか。
その前に、中也の父母、兄妹を紹介?しよう。
1918(大正7)年頃の中原一家 次男の亜郎は前々年に死去した
中也と孝子の結婚は、わずか5年ほど
その短い間に、長男文也・中也・次男愛雅失くし、孝子は一人になる
義母(中也の母フク)は、明るく気立てが良い孝子を好いていた
フクは実家のある湯田に孝子を連れて戻り一緒に暮らす
その時の孝子はまだ25歳の若さ
初めは泣き暮らす孝子に、フクは茶、華、箏などの習い事を薦めた
フクは実の親のように世話を焼き、孝子も次第に元気を取り戻してゆく
彼女を中原家の養女として迎へ、中也没して十数年、孝子を他家へ嫁がせた
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]