【京都時代~続き】
1924(大正13)
長谷川泰子は広島生まれ、幼い頃父が死亡し母も別居、祖母に育てられた
1924(大正13)
長谷川泰子は広島生まれ、幼い頃父が死亡し母も別居、祖母に育てられた
19歳の時に家出、広島を放浪中の永井と知り合う
二人で上京するが関東大震災が発生、京都に行く
泰子は劇団入団を経て映画制作所に入社する
永井はダダイズム詩人でもあったから、中原中也の名は知っていたのだろう
その永井が中也に泰子を引き合わせる・・・といったところか
中也と泰子は、中也の下宿先で同棲する 中也17歳、泰子20歳の春だった
1925(大正14)
中也と泰子は二人で上京する
帽子をかぶった中也のお馴染みの写真は、銀座の写真館で撮ったもの
この年、泰子は詩人富永太郎を通じて小林秀雄を知り合い、彼の愛人となる
この後は関係者が多くて何が何やら分からないので相関図を作ってみた
中也が泰子と別れた原因について、小林秀雄の随筆を引用する。
<泰子は潔癖症だった。ドアノブに触れないで部屋から出たり、
水道水を飲まなかったり、外出する時は必ず白手袋をはめたり。
その潔癖症は、中也を苦しめていた。
中也は、泰子の潔癖症を理解しようとしたが、結局は理解できなかった。
そして、その潔癖症が原因で、二人は別れてしまった。>
それでは泰子と同棲した小林はどうしたのか。
泰子の潔癖症が悪化、執拗に言葉で責めるようになった。
2年半ほどの同棲生活に疲れ果てた小林は、家から逃げ出し彼女と別れた。
1930(昭和5)
泰子は演出家の山川幸世と知り合い、望まぬ妊娠で子供が生まれる。
経緯は分からないが、中原中也が茂樹と命名している。
1932(昭和7)
泰子は銀座のバーの女給として働き始める
【中也と石原孝子の結婚、長谷川泰子の結婚】
1933(昭和8)
中也は、中原家と遠い親戚石原家の孝子と結婚する 中也28歳、孝子20歳
見合いの後、お互いは惹かれ合ってすぐ結婚を承知した
中也と孝子 中也は身長150cm弱と小柄、孝子のほうが高かった
孝子は美人で気品があり、賢くて明るい性格だったという
二人は、結婚後、東京四谷のアパートに住んだ
酒癖の悪い中也はよくケンカし、突っかかって行った
「こまい男(中也)が大きな男にかかっていくのが、
おかしゅうて、おかしゅうて」と義母に話していたそうだ
結婚当初は中也の小言に縮み上がってた孝子、
中也が怒ってもケラケラと笑うようになり、中也も拍子抜けしたらしい
1934(昭和9)
長男文也が生まれる
1936(昭和11)
長男文也死去。次男愛雅生まれる
長谷川泰子、実業家(石炭商)の中垣竹之助と結婚する
茂樹も中垣の子として入籍する。このあたり中也の働きなのだろうか?
泰子は田園調布で優雅な生活を送る
1937(昭和12)
中也、結核性脳膜炎により入院、10月死去する(享年30歳)
彼の告別式には、長谷川泰子も参列した
1938(昭和13)
次男愛雅死去。中原中也賞が制定される。
今日はここまで。
次回は、中也亡きあとの孝子の人生、長谷川泰子の晩年の人生を書く予定。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]