真夜中のカップらーめん

作家・政治史研究家、瀧澤中の雑感、新刊情報など。

『「江戸大名」失敗の研究』、発刊しました

2017-09-05 23:05:30 | Weblog



PHP文庫より、
『「江戸大名」失敗の研究』、発刊いたしました。

「失敗の研究」シリーズ、4冊目となる今回は、
江戸時代の大名や幕府を俎上に上げました。

・福島正則と蔣介石は、なぜ大国をうまく利用しながら最後は見捨てられたのか?
・赤穂浪士と二・二六事件の「失敗の類似性」とは?
・田沼意次と田中角栄の意外な共通点とは?
・上杉鷹山と浜口雄幸、名君はなぜ「失敗」したのか?
・徳川幕府が崩壊する、最初の「蟻の一穴」とは?

といった内容です。
書店でぜひ、手にとってご覧下さい。

Amazonはこちら
PHP研究所 本書紹介ページはこちら







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牧師の手記に記された軍人

2016-11-05 00:07:20 | Weblog
フィリピンと韓国。
アジアの二人の元首が、毎日のように新聞に出ている。

ドゥテルテ大統領と、韓国の朴槿恵大統領。

ふと、終戦後に行われたマニラ軍事法廷を、思い出した。

ドゥテルテ大統領は、ミンダナオ島のダバオ市長であったが、生まれたのはレイテ島のマアシン。
ミンダナオ島もレイテ島も、その周辺海域を含め、第二次世界大戦終盤、日米の大激戦地となった。

当時、そのフィリピン方面を統括していた山下奉文将軍は、戦後になってマニラ軍事法廷で裁かれ、絞首刑になった。

山下将軍処刑の現場に立ち会った牧師の片山弘二氏は、同じくマニラにて処刑された中で印象に残った人物の名を、手記に記している。

韓国出身の、洪思翊(こう・しよく)陸軍中将。

洪中将は、処刑執行を前にやや動揺していた片山氏に対し、

「片山君、何も心配するな。私は悪いことはしなかった。死んだら真直ぐ神様のところへ行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな」

洪中将は裁判中、自身に対する弁解は一切せず、部下に対する裁判の時のみ、証言をしている。

新聞を読みながら、こんなエピソードが、頭の隅をよぎった。

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津川雅彦さんの会でお話ししてきました

2016-11-03 00:39:18 | Weblog
先週、津川雅彦さんの勉強会に呼んでいただき、
講演をしてきました。

聴衆は俳優さん、女優さん、監督さんやプロデューサーの方、映像関係の学校に通う若者たち。
普段の講演とまったく違う雰囲気でした。

内容は、拙著『戦国大名失敗の研究~群雄割拠編』を基にしたもの。

大河ドラマなどで戦国武将を演じておられることもあって、興味をもっていただけたようです。

講演自体、楽しかったのですが、講演を終えてから俳優さんたちにいろいろなお話しをお聞きできました。

津川雅彦さんはご存知のように、「葵三代」で家康を演じられました。
津川さんは、
「家康は、実は短気な男」
と考え、それを表現をするために、家康の「爪を噛む」癖を利用したそうです。
頭にくると、爪を噛んで、嚙み切った爪を「プッ」、と吐き出す。
吐き出しそうになると、小姓が懐紙を広げて、それをうまく受け取る。
そういうシーン、たしかにあった。。。

また。
最近は喫煙シーンが極端に減ったそうですが、どうしても撮らなければならない時、煙草に火をつけるシーン、もしくは、煙草をもみ消すシーンだけを撮るようにお願いすることがある、と、でんでんさん。

せっかくの機会だからと思って、私がいつも時代劇を観ている時に心配していることをお尋ねしました。

「殺陣」をやっている時に、怪我をしないのか。。。

「アップで撮るときはジュラルミンだけど、殺陣の時はタケミツだから。それに、プロだしねぇ」

と、渡辺裕之さん。

「でも、素人が絡むと怪我することもあるんです」

と、秋野太作さん。

特に殴るシーンで、役者ではない出演者が、時々演技に熱が入りすぎて、本気で殴ってきたりするそうです。

「本当に殴るより、演技で殴った方が、ずっと迫力が出るんですよ」

さすが、プロ。

最後に感想を。

映像関係の学校に通う若者たちが、熱心に話を聞いてくれたことがとてもうれしかったです。

そして、津川雅彦さん。

津川さんは、政治的に保守系と見られていて、実際にもそういう主張をされています。

しかし、津川さん主催のこの会には、津川さんと政治的には反対側の人もいました。
たとえ意見は違っても、それを受け入れる度量と、意見は違っても、互いに人間として尊敬し合う清々しさ。
鬼のような演技もされる津川さんの、別れ際の優しい笑顔。
気持ちの良い、一夜でした。

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ホームページ、新しくしました

2016-07-08 23:17:01 | Weblog
ホームページを、新しくしました。

http://www.atarutakizawa.info/

これまでの著作など、ご覧いただけます。
ぜひ、お訪ねください。


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『戦国大名失敗の研究~群雄割拠編』その2

2016-07-07 23:55:54 | Weblog
『戦国大名失敗の研究~群雄割拠編』のご紹介、その2、です。

第二章は「長宗我部元親と大日本帝国」。



長宗我部元親と大日本帝国には、いくつかの共通点があります。

たとえば、アジアの小国から列強の一角にまでなった日本と、四国の小領主から、四国の覇者になった点。

西南戦争から28年後に、日露戦争に勝利した日本。
家督相続かた25年後に、四国の覇者になった元親。

米英と、最初は友好関係にありながら対立する日本。
織田政権と、最初は友好関係にありながら対立する元親。

およそ国力5倍のアメリカと開戦した日本。
3倍の所領、圧倒的に経済の差があった秀吉と開戦した元親。



興味深い発言があります。

秀吉に攻め込まれた時、一宮城を守っていた谷忠澄は、

「国に兵粮乏しくして上方(秀吉方)と永く取合ふべき(合戦すべき)用意なし」

と言って、長宗我部元親に降伏を進言します。

昭和20年8月13日、ポツダム宣言受諾回答に関する閣議で、広瀬蔵相、石黒農相、小日山運輸相らは、

「国力判断から見て継戦不可能」

と、同じ趣旨の発言をします。
ではなぜ、元親は開戦に踏み切ったのか。
つづきは、本書にて。


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『戦国大名失敗の研究~群雄割拠』、発刊のお知らせ

2016-07-06 23:54:34 | Weblog
新刊のご報告。

お待たせいたしました。
『戦国大名失敗の研究~群雄割拠編』(PHP文庫書下ろし)
発刊いたしました。



実は、最初の『戦国大名失敗の研究』を出した直後に、本作の依頼がありました。
その間、『幕末大名失敗の研究』を挟んで、ようやく完成。

今作のテーマは、「指導者と経営者」。
ある時代の、ある地域(領国)を経営した人物と、
その時代をつくり、日本全体にまで影響を及ぼした指導的人物の差はどこにあるのか。

伊達政宗、長宗我部元親、荒木村重、松永久秀、今川義元。
各々、スペインの独裁者・フランコ将軍や、大日本帝国、ヒトラーに対する各種反乱、第三次中東戦争などと比較をしながら、彼らが「群雄」で終わった理由をさぐりました。

歴史を眺めていると、
「なぜこの人が天下をとれなかったのか、政権を掌握できなかったのか」、
と疑問に思うことがよくあります。
伊達政宗はその好例で、

①政治家としての手腕 
②軍の指揮官としての能力 
③外交力 
④人間としての器

いずれもすぐれていました。

権謀術数に長けた政宗でしたが、
敵に内応した家臣は鮎貝宗信のみで、
弟や母親との確執を含めても、戦国時代には珍しく安定政権を維持しました。

さらに。

政宗は伊達家の家督を継いでわずか五年余で、
伊達家史上最大の所領を得ます。
時に政宗、24歳。

そんな政宗が天下を掌握できなかった理由に、よく
「生まれるのが遅かった」説が多用されますが、
関ヶ原合戦時に、政宗はまだ34歳です。

徳川家康が豊臣秀頼に遠慮をし、正式な書類を出さずに恩賞としての領地を与えていた事実などから、関ヶ原合戦直後には、なお政治は流動的であったと見ることもできます。
その時に34歳という年齢は、若すぎず、また、老齢でもありませんでした。

このことを含め、「遅い誕生説」にはいくつかの疑問があります。

そのほかにも、地理的理由、周辺状況といった、政宗本人ではどうしようもない環境を、政宗が天を掌握できなかった理由に挙げられることが多く見られます。

筆者の見方は、やや違います。

そもそも伊達政宗の政治路線、政治手法に間違いはなかったのか。

秀吉に対するパフォーマンス(白装束や、金箔の十字架)が称賛されますが、本来は、こうしたパフォーマンスをしないでいいように行動するのが、あるべき政治ではないでしょうか。

つまり、選択肢を狭めないようにすること。

政宗は、狭められた選択肢の中で、「これだ!」と決め、実行する能力は高かったのですが、選択肢を多く持つことにあまり大きな関心がなかったのではないか、と思える事象がいくつもあります。

政治では、
選択肢を多く持つことが、とても重要だと思います。
追い詰められた末の決断は、あまり好結果が得られないことが多いからです。

筆者は、実力がありながら豊臣政権の中枢に入れなかった点など、
秀吉との関係性と、領土拡大の失敗、そして、遣欧使節の活用についての疑問を、
政宗の失敗の要因として記述しました。

第2章以下、次回またご紹介いたします。

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新刊、間もなく発売です

2016-06-23 00:03:07 | Weblog
 大変お待たせをいたしました!

『戦国大名失敗の研究~群雄割拠編』(PHP研究所)、

 間もなく発売です。

 書店には7月はじめに並ぶかと。

 詳しい内容など、改めてお知らせいたします。

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71年前のパリ市庁舎前スピーチ

2015-11-15 17:40:37 | Weblog
「これから何事が起ころうとも、フランスの抵抗の火を絶対に消してはならないし、抵抗の炎は消えない」

 1940年6月18日。
 ロンドンのBBC放送は、ほぼ無名だったフランス陸軍准将、シャルル・ド・ゴールの声をこの日はじめて、祖国フランスに、そして世界に伝えた。

(ナチス・ドイツへの抵抗を選択したド・ゴールは、先の見通しも大きな支援も何も無い中で、祖国解放のためにイギリスに渡った)。

 昨日の、フランスに対する攻撃。
 テロは、人々に恐怖を与え、恐怖で自分たちの言いなりになるようコントロールする政治的な手段である。

 いかなる思想・信条・宗教が、いかなる立派な理由を掲げたとしても、テロは恐怖心を利用した人間操縦である。心の自由を奪う行為である。
 恐怖に押し流され、恐怖に屈することは、生きながら死ぬことだ。
 
 ド・ゴールは、四年間の戦いを経て1944年8月、パリに戻ってきた。パリは、自由を取り戻した。生きながら死んでいたパリは、再び生気を取り戻した。

 パリに凱旋したド・ゴールは、市庁舎前で、大群衆を前に次のようにスピーチしている。

「パリ! 侮辱されたパリ! 打ち砕かれたパリ! しかし今や解放されたパリ! 自分自身によって解放され、フランス軍の協力のもとに、フランス全体の、戦闘するフランスの、真のフランスの、唯一のフランスの、永遠のフランスの支援と協力のもとに、解放されたパリ!」

 亡くなられた方々へのご冥福と、傷を負われた方々のご快癒を祈りつつ。

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林子平と安保論議

2015-07-24 19:35:39 | Weblog
 徳川幕府後期から幕末にかけて、激しく議論が交わされたのは「国防」について、であった。
 そして徳川幕府は最初、国防を論ずることすら禁止した。

 たとえば、林子平の『海国兵談』。
「細かに思へば江戸の日本橋より唐(中国)、阿蘭陀(オランダ)まで境なしの水路也」 
 と述べたのは有名である。
 これを幕府は絶版とし、林子平は蟄居・版木没収という言論弾圧を受けた。

 意外と知られていないが、『海国兵談』は同じ徳川政権下で復刊することになる。
 嘉永4年(1851)のことである。
 『海国兵談』は寛政3年(1791)に全16巻の刊行を終えたから、60年の時を経てその見識が認められたことになる。

 『海国兵談』には経済の強化も触れられていて、
「世の中の人の、すまいやすき様に世話するを済世というなり」
 林は国が筋道を通すことを「経邦」、人々が食べていきやすいようにすることを「済世」とし、経済の意味とした。そうしなければ国は守れない。幕末に横行した「外国船など打ち払え」という無責任な国防論とは一線を画す。そういう意味でも、先進的な書物であった。

 また林は「長崎だけで対応して(長崎だけ守って)、他の地域を守らないとはどういう了見か」とも問う。
 どこかだけを部分的に守っても、それは国を守ることにはならない、というしごく真っ当な指摘である。

 日本という島国を守るとはどういうことか。「そもそも論」を基礎に、多岐にわたる記述が『海国兵談』の魅力であり、政権を怒らせた理由でもあった。
 
 発禁から60年経って同じ徳川政権下で復刊できた理由は、何であったろうか。
 嘉永2年あたりから、外国船が日本近海に頻繁に出没し、幕府としても「臭いものにフタ」ではいられなくなったのである。
 言い換えれば、「世界の出来事は日本と関係あるのだ」という危機感と国際感覚を、嘉永年間の日本が必要としていたのである。

 いや、嘉永年間には、目の前に現実を突きつけられたのだ。
 林子平が想像した状況が、幕末の日本に出現したのである。
 多くの識者が、「なぜ60年前にこれを葬り去ったのか」、と後悔をした。
 復刊は、遅すぎるくらいであった。

 林は、日本は海によって「隔てられている」のではなく、海によって「つながっている」、と論じた。
 普通、目の前の海を見て、海水によって世界諸国とつながっているとは思わない。それは寛政3年から200年以上経ったいまも、私たち日本人から抜けない感覚である。

 しかし、良かれ悪しかれ日本は世界とつながっている。林子平が悶絶する思いで書いたのは、「なぜ世界とつながっていることに、もっと注意を払わないのだ!」ということである。

 安保法制。
 そもそも国を守るとはどういう意味なのか、国の何を守るのか、どんな方法で守るのか。「そもそも論」を参議院に期待したい。
 中でも私個人は、日本が世界とつながっている「海水」はいったい何なのか、これからその「海水」をどんなものにするのか、という答えを、議論の中からすくい上げたい。

 細かな法律論、ケース別議論も大事だが、そもそも国を守ることの意味を与野党互いにぶつけ合ってほしい。
 そしてマスコミも、林子平がそうであったように、未来の日本を見据えた議論を起こすべきである。
 60年後、復刊され再読されるような主張を、期待したい。「60年前に準備しておけばよかった」、という後悔を伴わないことを祈って。

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新刊『幕末大名 失敗の研究』(PHP文庫)のお知らせ

2015-02-06 02:13:20 | Weblog
新刊を刊行いたしました。
『幕末大名 失敗の研究』(PHP文庫)。
前著『戦国大名 失敗の研究』、その第二弾です。
おついでの時にでも、書店でお手にとっていただけるとうれしいです。

版元がつくってくれた本書紹介です。
・・・・・・・・・・・
「開国か攘夷か?」「尊皇か佐幕か?」――もはや一刻の猶予もない欧米列強の脅威と、ひたひたと忍び寄る植民地化の危機。日本の行く末を案じ、また己の権力の増強を目指して、幕府や大名、そして維新志士たちが動乱の時代を駆け抜けた。

 しかし、ある者は権勢を振るった末に消え、ある者は“時代の先駆者”のまま早々に舞台から降り、またある者は、維新を完遂したところで権力を奪われた。

 本書は、幕末人物たちの「強大な政治力が失われる過程」を考察することで、現代にも通じる“失敗の教訓”を学ぶ。

第1章 徳川幕府が気づかなかった売国への道~井伊直弼と田中角栄
第2章 生き残った山内容堂、殺された坂本龍馬
第3章「真珠湾攻撃」なき戊辰戦争で失敗した、松平容保
第4章 西郷隆盛にとっての、「島津久光」という失敗
第5章 水戸藩と長州藩、維新さきがけの組織疲労

など、彼らが“新時代”から姿を消した理由がここにある!

・・・・・・・・・・

いま、同シリーズの第三弾目を執筆中です。
また、ご報告させていただきます。

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