真夜中のカップらーめん

作家・政治史研究家、瀧澤中の雑感、新刊情報など。

「不完全な閣僚」って・・・

2011-09-08 22:46:35 | Weblog
増税について書くつもりだったが、
あまりにひどいので、閣僚について。

まず、法務大臣。
「大臣規範」で、閣僚や副大臣による大規模な政治資金パーティーは開催を自粛するよう定めているが、
彼は堂々と、地元で資金集めパーティーを開催。
「『大規模』じゃないからいいんだ」、という弁明。笑止。

防衛大臣。
「安全保障は素人だが、これが本当のシビリアンコントロール(文民統制)だ」
唖然。
ということは、素人なら彼でなくても、私でも、
近所のオバちゃんでも、誰でもいいわけである。

そして。
マルチ商法の業者やその業界団体から、合わせて254万円の献金を受けていた大臣。
この人、消費者担当大臣。
ブラック・ジョークか?

以前、自民党の1年生議員だったAから、こんな話を聞いた。
会社を経営していたAは、議員に当選後、社内の倉庫の二階に事務所を置こうとした。
会社は弟が継ぎ、Aは退職。
倉庫の借り賃もちゃんと払うから問題ないが、一応、ベテラン議員のTに報告をした。

Tの答えは、
「ダメだ。絶対にそんな場所に事務所を構えるな」
だった。

「たしかに、借り賃を払えば法的には問題なかろう。
しかし、国民はそれをどう見る?
『自分の会社に、タダで事務所を置いている』
『社員も、政治活動に利用している』
『会社に便宜を図るつもりだ』
こう、思われないか?
たとえ法的に正しかろうと、有権者から誤解を受けるようなことは、
政治家は絶対にしちゃいかん。
合法と信用は、イコールではない」

Tは、閣僚や党の要職を歴任した人物だが、彼は一度も金銭スキャンダルに巻き込まれたことがない。
無礼を承知で、「どうしてそういう問題を起こさないのですか」、と尋ねたら、
「自覚の問題だよ」、と答えてくれた。

結局のところ、大臣になるつもりの無かった二流政治屋が、
間違って大臣になったものだから、自覚も勉強も見識も足りないために、次々とボロが出る。

これは、私だけの意見ではない。

「不完全な内閣で、十分な答弁ができない」

こう言って、予算委員会を開こうとしないのは、
当の民主党の国対委員長である。

嗚呼、政権交代から2年。
「出来たばかりだから仕方ない」、「仮免許」、「経験したことがない」、「想定外」。
こんな言葉を、まだあと2年、聞かされるのか?

政権交代から2年たって、
「ノーサイド」でつくったはずの全党的内閣なのに、
「不完全」なものしか出来ないのなら、あと2年待っても一緒だ。
だって、所属議員は変わらないのだもの。

閣僚になった人たちには、怒りより憐れみを感じ始めた、
今日この頃である。

野田政権は、支持してくれる既得権を持った人々を裏切れるか

2011-09-08 00:51:09 | Weblog
「それでも、前よりマシだし、珍しく信念のありそうな総理じゃないかな?」
と、友人が言った。野田新総理について、である。

まだ実質何も始まっていない段階で言うのもなんだが、
以下のことは野田政権の政策を見る上で参考になるかもしれない。

政治は背景であり、支える人や団体や組織を無視して、
政治家個人の性格や、信条だけを取り上げてもあまり意味がない。

野田グループは、党内にわずか30名しかいない。
これでは、政権基盤が強いとは言えない。

かつて自民党政権時代、自派の勢力が小さい総理大臣は、ほぼ例外なく政権基盤が弱かった。
古くは三木武夫、海部俊樹、宇野宗佑。
最近で言えば麻生太郎。

小泉純一郎は、個人としては「一匹狼」だったが、
その基盤は党内第2位(のち党内最大派閥)の森派であった。

また、政党を応援する団体や組織を無視したり、
支援団体に不利益になるようなことは、基本的にどの政党も行わない。
例外は小泉政権における特定郵便局との関係くらいである。

しかし、公務員改革を本気でやろうとすれば、必ず公務員の労働組合と利害が衝突するし、
教師の質を上げるために、無能な教師と有能な教師の給与に大きな差をつけようとすれば、
日教組出身の新幹事長が死んでも阻止するであろう。
外国人参政権問題では、これを棚上げにすれば、
民主党を応援していたらしい在日の外国人団体は、どう考えるであろうか。

小泉改革に迫力があったのは、
「え?そんなことしたら、自民党の票が減るぞ!」
と、関係者だけでなく周りが驚くほど、
旧来の支持団体に不利になることを推し進めたところにある。

はたして、国全体の利益を考えて、
野田政権は支持してくれる既得権を持った人々を裏切れるのかどうか。

かつて小沢一郎氏と党代表選を争う寸前、腰が引けて代表選から撤退、つまり逃げた野田氏は、
今度こそ、逃げずに国の為に既得権者を抑え込めるのか。

増税をかかげる野田政権には、その覚悟が薄いと見るが、
詳しくは明日、ブログにて。

試される、国民の見識

2011-09-07 02:53:33 | Weblog
「野田政権に対する感想は?」
と、複数のメディア関係者から尋ねられたが、所信表明も行われていない段階で、良いも悪いもない。
だから、期待も絶望もしていない、と答えている。

世間では、外交も内政もぐちゃぐちゃにして辞めた鳩山氏や、
同じ民主党の仲間の多くから
「お願いだから早く辞めてくれッ」と、
悲鳴に似た辞職勧告を受け続けた菅氏と比べれば、
野田新総理はマシなのではないかと、そういう声が聞こえる。

そこで考えた。
たとえば。
入学以来2年間、100点満点で30点以下しかとれなかった子がいたとする。
その子が、100点満点で50点とった。
「よく頑張ったねえ!」と、先生は一応褒めてくれるかもしれない。

野田政権に対する期待値を間違えると、
まるで50点が素晴らしいかのような錯覚に陥る。

子どものテストなら、冷たいようだが、影響はその子だけのことである。
しかし、国政での50点は、国家国民全体が50点の中で生きていかねばならないことなのだ。
政治には常に100点を求めるべきである。
そうしてようやく、合格点の60点くらいになる。

要は、期待しつつ、厳しく監視すべき、ということである。
監視するには、監視するだけの見識を私たち自身が持たねばならない。
だいたい、見識のない国民が、どうやって見識のある政治家を選べるのか。

政治は政治家に丸投げしているのではない。
政治家に、一時的に権力を与えて、私たちの代わりに働いてもらっているのだ。

政治家には国家国民に対する責任があり、
国民には、見識をもって政治家を選び、見識をもって政治家を監視をする義務がある。

野田政権で試されているのは、
実は私たち国民の、政治に対する見識、そして監視義務でもあるのだ。

松本冶一郎の丁寧さ

2011-07-05 01:01:56 | Weblog
以下は、全国や解放同盟の生みの親、育ての親であり、
参議院の副議長を務めた、松本治一郎のエピソードである。

若い記者が、参議院の食堂で食事をしていた。
そこに、松本治一郎も食事をしにきた。
足が少し弱っていた治一郎は杖を持っていたが、立て懸けてあったイスからパタン、と杖が倒れた。
若い記者はそれを拾って、松本治一郎が座っている近くのイスに立て懸けた。

すると。
松本治一郎は、起ちあがってわざわざ記者のところに行き、
「お手数をかけた。ありがとう」
そう言って、膝に両手をつけて、頭を下げた。
社会党の大物議員であり、
参院副議長経験者でもある人物のあまりの丁寧な対応に、記者はびっくりした。

また、松本は自身が差別と闘ってきただけに、
他人に対しては決して差別は行わなかった。
ベテランの記者だろうが、新人の若い記者だろうが、対応は変わらない。
「なにを聞いても、きちんとした言葉で、丁寧に対応した」
とは、当時、産経新聞の記者だった俵孝太郎氏の述懐である。

さて。
この松本治一郎の孫が、今回の復興担当大臣である。

もはやおわかりかと思うが、もし、松本治一郎が復興担当大臣で、2分足らず待たされたからと言って、立場の弱い、復興をお願いする側の県知事を、
「客を待たせるとは、何事だ!」
などと、チンピラヤクザのように脅すことはなかったろう。

彼を弁護する人は、やれ「親分肌だ」、やれ「現場に一番足を運んでいる」、やれ「進まない復興にイライラしていた」と言う。

まず、本当の「親分」というのは、身内のために身を捨てるだけではなく、治一郎のように敵以外の誰に対しても丁寧で親切である。身内にだけウケる「親分肌」など、所詮小者の恰好つけにすぎない。

「現場に一番足を運んでいる」というが、当たり前ではないか。復興担当前は災害担当大臣だったが、災害担当が現場に行かない方がびっくりする。

「進まない復興にイライラしていた」とか、「知事を励ます意味があった」などという、本人を含めた周囲の話を聞いて、「ああ、この人は、子どもなんだ」と、納得が行った。
子どもは、自分が正しいと思えば、周囲がどんな思いをするのかなど気配りはできない。
もしそれまでの経験で、怒鳴ったり、たしなめたりして事が進んだ経験を持っていると、子どもはそれでいいと勘違いする。

子どもだから、尊大で不遜なのだろう。
子どもだから、「許してやれ」という話も出てくる。

祖父の松本治一郎とまでは言わないが、せめて、
大人の対応をしてみてはどうか。

「九州の男だから」とか「B型だから」といった幼稚な「反省」コメントには、評論する価値も見出せない。
総理の地位にしがみつくガキ大将に、
お客様扱いされないと、怒りまくるガキ大臣。
嗚呼、大人の政治、大人の政治家は、いつになったら出てくるのか。

これだけ政治家の劣化が進んでいるということは、
立派な政治家を見出すことを、政党に任せるだけではなく、
私たち自身の手で行わねばならない時期に、来ているのかもしれない。

「死に方」を考えよう

2011-06-28 00:31:04 | Weblog
人間は自身の存在に意味を求める生き物である。
なぜ自分は生きているのか、何のために進学し、何のために仕事をしているのか。

それは、死についても言える。
どうあがいても死が避けられない。
もし、死ぬことが決定事項だとすれば、
その死に方には意味が出てくる。

武士が切腹を「名誉な死に方」と考えたのは、
それが「武士」という存在を認めた死に方だったからである。

今、菅直人は「死に方」に迷っている。
なんとか、後世に残る手柄を立ててから辞めたい。
どうせ辞めさせられるのなら、辞める前に何か残したい。

武士と菅直人は、「死に方」にこだわる点で一致している。
しかし、武士は名誉を重んじ、菅直人は虚栄という私欲を追い求める。
求めるものが私欲か名誉かは、見苦しいか否かで判断がつく。

権力の座につく覚悟も準備もなくそこに座っ者が陥るのは、
権力行使に酔いしれて己を見失う、ということ。
己を見失った者ほど、「死に方」を知らない。

彼らは与えられた権力が臨時のもので、それは単に「託された」ということに気付かない。
口では「国民・住民が第一」と言いながら、国民のことよりも私欲が先に立つ。
なぜなら、彼らは権力を国民から「託された」のではなく、「自ら苦労して手に入れた」と確信しているからである。
しかも始末の悪いことに、議員になってから初めて行政や政治の勉強をする連中のいかに多いことか。
いま、内閣総理大臣を先頭に、この手の「政治屋」とすら呼べない劣悪な議員が例外ではなく散見できる。

そこで、問おう。
だれが悪いのか。
それは、私たち国民ではないのか。
劣悪な議員や詐欺政策に踊らされて投票した国民の責任を問わずして、
政治が良くなるわけがないではないか。

地方政治を含めて、私たちは私たちが選んだ者の「死に方」を考えねばならない。
それが、彼らを生みだした国民の責任である。

政治家を育てよう

2011-06-02 20:49:43 | Weblog
組織を動かせない人は、首相には向いていない。
党内をまとめられない、人事がわかっていない、官僚を動かせない、そんな首相が一体、これから何をしてくれるというのか。

「では、管のあとは誰がやるんだ」

という質問、展望をよく聞かれる。
そういうことをテレビで聞かれた民主党の議員が、「まあ、それはそのー」と、言葉を濁す。
若いくせに、妙に自己保身だけは長けている議員が多い。

あるいは、パフォーマンスか何かしらないが、
「反対!反対!」と叫んで、造反してみせる。

「私がやります」
と、なぜ言えないのだろう。
「私ならこうします、私なら、できます!」
という政治家を、国民はなぜ選んでこなかったのだろう。

イギリスでは40代の党首などざらに出てくる。
労働党のエド・ミリバンド現党首は現在42歳。
キャメロン首相は45歳。
トニー・ブレアが首相になったのは、44歳の時。
アメリカのオバマ大統領は就任時、47歳。
ケネディは43歳の時に大統領になった。
ついでに言えば、プーチンがロシア大統領になったのが48歳の時で、
メドヴェージェフは大統領就任時43歳。

この連中と、戦える首相を持たねばならない。

日本の若い議員に、一国をゆだねられるだけの力量がないのか。
それとも、そういう議員を選んでこなかったのか。
あるいは、議員自身が40代で首相になろうなどと考えず、政権構想を持っていないのか。

いま触れた米英露など、こういう国では「国家とは何か」という教育を
子どもの時から学ぶ。
アメリカでは、日本の小学校高学年が使う歴史の教科書で、
「君がもし、1941年にアメリカ大統領なら、どんな決断をする?」
ということを、クラスで話し合う設問がある。

日本で言えば昭和16年。
対日戦争をどう考えるのか、を、小学生の時に問うのである。

こんな教育を受けて育ってきた連中と、互角に戦える政治家が
日本で育つのかどうか。

それは大きな課題としてこれからも論じていきたいが、
現状、とりあえずどうすべきか。

「永田町にはうんざりだ」
と、したり顔でコメントする人を見ると、
「それなら、あなたが次の選挙に出て下さい。私たちが選んだ結果が、こうなのですよ」
と言いたくなる。

私たちは政治にしらける前に、自分で自分の国を良くしようと考え、行動しなければならないのではなかろうか。
その第一歩は、
「では、どんな政治家なら国を良くしてくれるのか」
を、考え、勉強することだと愚考する。

そしてできれば、政治家を育てる、という風土を持ちたい。
優れた政治家には、必ず優れた後援者がいるものである。

2011-04-27 23:21:58 | Weblog
映画、「雨に唄えば」。
ジーン・ケリーの、雨中で踊るシーンが印象的でした。

じつはあの「雨」の中には、
撮影のときに牛乳が混ぜてあったそうです。

雨(水滴)は、撮影カメラを通すとあまり美しく映らないので、
このような工夫がされたとのこと。

そういえば、黒澤明の「七人の侍」。
あの大戦闘シーンの雨にも、あるものが入っていたのですが、
ご存知でしょうか?(答は最後に)。

以前、某有名監督の下で働いていた若い助監督の方にお話しを聞いたのですが、
日本は、都市からかなり離れた山の中にも電柱が立っていて、
時代劇を撮影する時に困る、と言っていました。

何か所か、馬で疾走しても電柱や建物が映らない所があるそうですが、
場所が限られていて、別な映画なのにいつも同じ風景になる、と
嘆いていました。

黒澤明のように、「撮影に邪魔だから」と言って
建っている家を壊してしまったりするのは、最近は予算的に無理なのでしょうね。

馬も疾走できて、電柱も建物も見えなくて、
近くには旅館などの施設があって、
東京もしくは都市圏から新幹線で2~3時間くらいの場所があれば、どうでしょう。

3キロ四方くらいの土地を確保して、電線も建物も隠す。
撮影ごとにセットをつくり変えられる。あるいは
ずっと設置したままのお城や武家屋敷などをつくり、
撮影の予定がない時は宿泊もできる。

その自治体丸ごと「映画村」にして、古刹や史跡も撮影に活用し、
観光で収益を上げ、
映像文化発信のための学校などもつくったら、面白いのに。

京都の映画村は、さすがに長距離馬は走れませんよねえ。
観光村と違って、あくまで「巨大屋外撮影スタジオ」という線でやったら
海外からも撮影に来て面白いと思うのですが……。

さて。
「七人の侍」の戦闘シーンで降らした雨に混ぜていたのは、




「墨」




です!
モノクロ映画でしたから、墨を混ぜることで、雨の激しさが強調されたんですね。

今日から明日、関東から東北にかけて大雨だそうです。
どうかこの雨が、被災地にとって、
恵み以上の雨になりませんように。

震災時の政権批判と、今後のブログについて

2011-03-31 01:17:56 | Weblog
何人かの方から、
「震災の非常時なのだから、政権批判はすべきではない」
というご意見を戴いた。

私も以前、本ブログに書いた通り、
災害時に政権担当者を批判する愚は避けたい、と、考えてきた。
が、どうしても現象面で見過ごせないことがあったので、
コメントをしてきた。

しかし、これまでの政治状況とは違い、
今は事実の確認が極めて難しく、実際に震災の現場に入ることも難しく、
物書きとして、無責任なモノ言いになる、と感じている。

友人にこの話をしたところ、
「君は君のスタンスで、たとえばこれから先の長期的な提言や、
歴史上の話から、復興のヒントを記してはどうか」
というアドバイスも戴いた。

しかし。
津波で押し流され、行方不明になった母親を、その災害現場で
「おかぁさぁーんっ!」と、大声で探している中学生の姿を見た時に、
「いま復興の話や、長期展望を言うのか?」と、自問自答してしまう。

政権批判は、絶対に必要である。
たとえば戦争をしている最中に、
「今は戦時だから」といって指導者を批判できなければ、
むしろ敗戦への道を進むことにもなりかねない。

復興の長期展望も、絶対的に大事である。
職場を奪われた人々の不安だけを考えても、
議論の余地が無いほど、即効の援助と長期展望は大切だ。

ゆえに、政権批判も長期展望も、書き続けるに値する。

しかしながら、私はできれば、
犠牲者家族や、行方不明の家族を捜す人々の心に寄り添いたい。
せめてしばらくは、その心の近くにいたい。

そうした人々もまた、自身の生活を成り立たせなければならないであろう。
経済的、あるいは法的な援助は国や地方自治体などが行えるとして、
私のような物書きができることは何であろうか。
それは、復興の中で忘れ去られるかもしれない犠牲者やその家族の心のそばにあって、
知識や情報を知らせるのではなく、
わずかでも「心の糧」を提供することではないか。
いや、単に無聊を慰めるだけでも良いのではないか。

そこで今後、本ブログは、たとえば被災者の方が読まれて、
少しでも癒しや、元気や、明るさや、穏やかさが取り戻せるよう、
震災とまったく関係のない話題にも積極的に触れていきたいと思う。

愛読者諸氏のご理解を、賜りたい。

緊急対応と再建

2011-03-27 14:20:18 | Weblog
福島県のいわき市に、
患者の移送を行う医療支援に行かれた医師からの報告。

まず、福島に着いても、風評によっていわき市に向かうタクシーがない。
ようやく病院に着いても、患者の移送手段がない。

「いつ移動できるともわからず待つのはつらいものでした」
「なぜ、連絡が来ないかがわかれば、まだ対応のしようもあるのですが、
どういう手順、どういう手筈でということがよくわからないまま、
いまかいまかと連絡をまつという感じでした」

これまで自家発電で頑張ってきたけれども、水道も復旧しないためギブアップという中小の病院から、入院患者が続々いわき市内の基幹病院に搬送されている。

「同じような大変な状況で、自らも被災者でいながら、医療に奮闘されている方々がいて、一方なんとか力になりたいという全国の医療関係者がいて、でもその間を取り持つシステムが脆弱なため、有効に活用できない状況です」

この点はぜひ、政府の災害ボランティアを担当する対策本部などが中に入ってやってもらいたい。

「官のみでなく、民が統率のとれた組織を形成し、補強しないとこの状況を乗り切れないのではないかということです。支援したいという情報を垂れ流すだけでなく、マッチングやコーディネイトする部署が必要です」

いわき市に医療支援に向った医師は、課題としてこうした提案をしておられる。
ぜひ、政府も検討・実行してもらいたい。

また、病院再建について、
もし中小診療所などの再建をせずに基幹病院に患者を集中させると、外来の増大によって入院機能が大きく損なわれ、在宅医療や慢性の病気などに対応が難しくなる、という指摘がある。

震災被害地域の中には、すでに再建に向けてかなり動き始めたところがある。
被害が甚大で再建が遅れている地域と、そうでない地域を段階別に分けての対応が必要である。
再建の進み始めた地域では、
拙速な大病院集中再建ではなく、地域の中小病院再建に意を用いる必要があると考える。

寄り添う両陛下、寄り添わない政治家

2011-03-25 23:18:50 | Weblog
ガソリンが足りない。

経済産業省のホームページを見ると、
東北地方(被災地)及び関東圏でのガソリン・軽油等の供給確保状況(3月25日)
http://www.meti.go.jp/earthquake/commodities/oil0325.pdf
というPDFが出ている。

「こんなにいっぱい、しかもここまで運んでいるぞ!!」
という内容が、事細かに1枚モノで書かれている。
つくった人は必死だろう。
買占めや不安を少しでも解消したいのだから。

私は思う。

経済産業省のホームページを開く。
そこには、被災地域のスタンドに
次から次にガソリンが運ばれる写真が何枚も載っていたら、と。

事細かな文字による説明よりも、被災地の地名の入ったガソリンスタンドにタンクローリーが入って給油している写真1枚の方が、どれほど安心を生むか。

さて。
この震災の中、埋もれたニュースがいくつかある。
政治家絡みで二つほど注目したい。

土肥隆一議員が竹島について、「日本固有の領土だと主張するな」という声明に署名した件。
謝罪会見では、「国を背負っている意識はなかった」と、現職の国会議員として信じられない寝言を言っていた。

知らぬ間に彼は、民主党を離党していた。
http://www.dpj.or.jp/news/?num=19882

もう一人。松崎哲久衆院議員。
昨年11月の自衛隊入間基地納涼祭で、一方通行を無視して自身の車を逆走させ、言い争った交通統制員の自衛官の胸をつかんで強く押した、という出来事。

松崎氏本人は強く否定し、「(記事にした)産経新聞の謀略」とまで言っていた。
(本人ブログhttp://ameblo.jp/matuzaki-tetuhisa/archive2-201011.html#main
が、3月23日の参議院予算委員会理事懇で、防衛省の聞き取り調査が発表された。
http://www17.ocn.ne.jp/~isozaki/data/matsuzaki.pdf

ほぼ、産経の記事通りの内容だった。

3月25日付の産経新聞によれば、松崎氏は民主党での聴取に対し、「事実関係を大筋で認めた」という。
まあ、「産経がまた謀略記事を書いた」というかもしれないが、
「全く事実無根」「新聞報道の名に値しない記事」とまで、自身のブログでこき下ろしていたのだから、はて、これからどんなコメントが出るのか。

そういえば。
民主党の某有名参院議員が、大学生主催のパネルディスカッションにパネラーとして出席した時の話。
彼は外套も脱がず、ポケットに手を突っこんだまま何も発言せず、担当の学生に暴言を吐いたという話を聞いた。
どうやら、「議員先生サマ~」と、殿さま扱いしなかったのが不機嫌の理由だったらしい。

土肥氏は、国の領土に対する認識はもちろんだが、竹島近くで漁業を行っている日本の漁民の気持ちがまったくわかっていない。

松崎氏は、もし報道が事実なら、事故を起こさないよう任務を果たそうと一所懸命交通整理をやっていた自衛官の気持ちが、まるで理解できていない。

某参院議員は、大学生が一所懸命イベントを成功させようとした苦労がまったくわからない。

経産大臣は、ガソリン不足で不安を持つ人々の「気持ち」が、これまたまったくわかっていない。

どこにどれだけガソリンがある、ということよりも、被災地では、「いつ自分たちのところに届くのか」が問題であり、都市部では、「本当にガソリンがあるのか」という疑念を払しょくすることが大事なのである。

そういう、国民の気持ちが理解できない。

政府関係者のみなさん。
大変なのはわかる。だが、今は国民を「指導」するのではなく、寄り添おう。
犠牲者と、被災者と、不安を持つ国民に、政治は寄り添おう。
不安を持つ国民の立場から、すべての政策・対策をはじめよう。

いま、天皇皇后両陛下は、
自主的に停電をされておられると聞く。

千代田区は、計画停電区域に指定されていない。
しかし両陛下は、国民と「困難を分かち合いたい」と、
第1グループの時間に合わせて、電気を切っておられる。
時には、ろうそくや懐中電灯を使われている。

両陛下のお言葉が、胸に染み込んでくる理由が、わかった。