父が逝って、きょうでちょうど1年。
「ガンは、死期がわかるから、他の病気よりマシ」
と本に書いている医師がいたが、父を見ていて、とてもではないが、そんな気にはならなかった。
家族を末期ガンで亡くした方ならば、わかって戴けると思う。
苦しみのあまり、私の腕をつかんで、かすれた声で、
「オイっ、殺せ!いいから俺を殺せ!」
と言った父のあの顔を、忘れる事ができない。
手術から1年。
一度も症状が好転する事なく、苦しみ抜いた末の死であった。
病気は、もしかしたら運命かもしれない。
しかし、死に至までの医療や介護制度のあり方、特に医師や病院、関係者のあり様は、考えさせられるものがあった。
某大病院でのこと。
ガンの全身転移の検査結果をまったく見ずに、機械的に診察する医師。
一度も、患者である父の方を向いて話をしなかった、某科の医師。
たった1分の、電話でも済むような結果を聞くために、ガンが全身に転移した患者を
3時間以上病院のベンチで待たせる、某科の医師。
入院中、熱を下げるために額に巻く保冷剤を、温かくなったので取り替えてくれるよう父が頼むと、
「数がないのよ。あなたには特別にやっているのだから、文句言わないで!」
と、吐き捨てるように言った看護師。
(さすがにこの時は頭に来て、「ないなら買って下さい」と言い、父が末期がんであることを説明して、「もう少し優しく接してもらえまいか」と頼んだ。驚くべき事に、この担当看護師は、父の病状を知らなかった)。
医師や看護師が悪いのではないかもしれない。
たしかに、この病院は患者数が多く、多忙だった。
しかし、「忙しすぎるから、仕方ない」と言い訳できる職業は、そうはあるまい。
一度、父は病院のシステムについて注文めいたことを、丁寧な口調で担当の医師に話した。
すると、
「ボクは、そういうのは関係ありませんから!」
と、面倒くさそうに言い放った。
もし、デパートで、
「あの売り場のやりかたは、少しおかしいんじゃないですか」
と別の売り場の店員さんに言ったとする。
「ボクは、そういうのは関係ありませんから!」
と言うことは、あり得るのだろうか?
(偉ぶるなよ、コノヤロー!)と、叫びたい気持ちを押さえた。
命を人質に取られることの弱さを、感じた。
最期の2週間は、都内の某ホスピスで過ごした。
父はガンと診断されてから初めて、人間らしい、「心の治療」を受けた。
かかりつけの医師以外で初めて、心から「先生」と呼べる医師たちに、出会った。
献身、という言葉そのものの看護師たちに出会った。
ほとんど泊まりがけで看病してくれた家内も、このホスピスで、気持ち的には救われたようであった。
そして、雪の残る東京から、父は旅立った。
寒がりだった父は、雪の東京が嫌だったのかもしれない。
(オヤジ、天国は、あたたかいのかい?まだ、使い残しのホカロンが、残ってるよ…)。
手術から1年と4日目であった。
この間、信じられないほど親身になってくれた友人たち。
その友人から紹介してもらい、見返りもないのにご尽力下さった方たち。
仕事上のお付き合いしかないのに、様々な手助けをして下さった方たち。
年末年始のお休みをすべてキャンセルして、父に寄り添って下さった先生。
父の好物を持って、いつもお見舞いにきて下さったおじ、おば。
父と一緒に泣いてくれた親戚のみなさん。
心配をし、励まして戴いた皆様。
あらためて、心から、深く、深く、御礼申し上げます。
ここしばらく、筆を止めておりましたが、今年、本格的に執筆活動を再開します。
またこの場で、ご報告できれば、と思います。
(直近の刊行は、初夏を予定しています)。
父の一周忌にあたり、久しぶりに書かせて戴きました。
重ねて、皆様に御礼と、ご報告を申し上げます。
「ガンは、死期がわかるから、他の病気よりマシ」
と本に書いている医師がいたが、父を見ていて、とてもではないが、そんな気にはならなかった。
家族を末期ガンで亡くした方ならば、わかって戴けると思う。
苦しみのあまり、私の腕をつかんで、かすれた声で、
「オイっ、殺せ!いいから俺を殺せ!」
と言った父のあの顔を、忘れる事ができない。
手術から1年。
一度も症状が好転する事なく、苦しみ抜いた末の死であった。
病気は、もしかしたら運命かもしれない。
しかし、死に至までの医療や介護制度のあり方、特に医師や病院、関係者のあり様は、考えさせられるものがあった。
某大病院でのこと。
ガンの全身転移の検査結果をまったく見ずに、機械的に診察する医師。
一度も、患者である父の方を向いて話をしなかった、某科の医師。
たった1分の、電話でも済むような結果を聞くために、ガンが全身に転移した患者を
3時間以上病院のベンチで待たせる、某科の医師。
入院中、熱を下げるために額に巻く保冷剤を、温かくなったので取り替えてくれるよう父が頼むと、
「数がないのよ。あなたには特別にやっているのだから、文句言わないで!」
と、吐き捨てるように言った看護師。
(さすがにこの時は頭に来て、「ないなら買って下さい」と言い、父が末期がんであることを説明して、「もう少し優しく接してもらえまいか」と頼んだ。驚くべき事に、この担当看護師は、父の病状を知らなかった)。
医師や看護師が悪いのではないかもしれない。
たしかに、この病院は患者数が多く、多忙だった。
しかし、「忙しすぎるから、仕方ない」と言い訳できる職業は、そうはあるまい。
一度、父は病院のシステムについて注文めいたことを、丁寧な口調で担当の医師に話した。
すると、
「ボクは、そういうのは関係ありませんから!」
と、面倒くさそうに言い放った。
もし、デパートで、
「あの売り場のやりかたは、少しおかしいんじゃないですか」
と別の売り場の店員さんに言ったとする。
「ボクは、そういうのは関係ありませんから!」
と言うことは、あり得るのだろうか?
(偉ぶるなよ、コノヤロー!)と、叫びたい気持ちを押さえた。
命を人質に取られることの弱さを、感じた。
最期の2週間は、都内の某ホスピスで過ごした。
父はガンと診断されてから初めて、人間らしい、「心の治療」を受けた。
かかりつけの医師以外で初めて、心から「先生」と呼べる医師たちに、出会った。
献身、という言葉そのものの看護師たちに出会った。
ほとんど泊まりがけで看病してくれた家内も、このホスピスで、気持ち的には救われたようであった。
そして、雪の残る東京から、父は旅立った。
寒がりだった父は、雪の東京が嫌だったのかもしれない。
(オヤジ、天国は、あたたかいのかい?まだ、使い残しのホカロンが、残ってるよ…)。
手術から1年と4日目であった。
この間、信じられないほど親身になってくれた友人たち。
その友人から紹介してもらい、見返りもないのにご尽力下さった方たち。
仕事上のお付き合いしかないのに、様々な手助けをして下さった方たち。
年末年始のお休みをすべてキャンセルして、父に寄り添って下さった先生。
父の好物を持って、いつもお見舞いにきて下さったおじ、おば。
父と一緒に泣いてくれた親戚のみなさん。
心配をし、励まして戴いた皆様。
あらためて、心から、深く、深く、御礼申し上げます。
ここしばらく、筆を止めておりましたが、今年、本格的に執筆活動を再開します。
またこの場で、ご報告できれば、と思います。
(直近の刊行は、初夏を予定しています)。
父の一周忌にあたり、久しぶりに書かせて戴きました。
重ねて、皆様に御礼と、ご報告を申し上げます。