書の歴史を臨書する

古今の名磧を臨書、最近は米フツ。
時折、気の向くままに漢詩や詩、俳句などを勝手気侭に書いております。

楊太眼造像記

2006-06-19 08:25:03 | Weblog

武勇の誉れの高い楊太眼が、凱旋途上、
寄進供養したとされる。

この一連の北魏の筆法に、
先述の爨宝子碑の横線などの筆法と共通点がある。
僻地である雲南、しかも約100年の時を隔てて、
何故にこのような似通った筆法なのか不思議でならない。
逆ならまだ理解出来る。


爨龍顔碑(458)

2006-06-16 08:33:39 | Weblog

古い地図によると、
当時の雲南地方は南朝の勢力圏にある.
しかし、
爨宝子碑,爨龍顔碑の筆法は王羲之等の南方よりも、
明らかに北方の影響を感じる。
地理的な隔たりが中原の古筆の影響のままに止まったのであろうか。

爨宝子碑(405)

2006-06-15 06:15:27 | Weblog

中国南西の果、蛮地と言われた雲南に現存する碑だ。
自由奔放にうねり唄っているようでもある。
不思議な調和感がある。
無邪気で素直で楽天的だが素朴、粗野の中に威厳をも感じる。
左右への思い切った撥ね上げに当時の人々の生き様が息吹いているようだ。
新しい書を目指す書家に人気が有るのが頷ける。


王献之・中秋帖

2006-06-14 06:44:39 | Weblog

王献之。
王羲之の第7子。
兄弟の中でも特に書の才能に恵ま、父とともに「二王」と併称される。
彼は行草書に秀で代表作は中秋帖。
羲之には無い華やかで自由奔放、優雅な書風は妍媚な趣きがある。
連綿を多用した書風は後世代の米?、張旭・懐素、傅山、王鐸等に大きな影響を及ぼした。

王羲之・楽毅論

2006-06-13 07:42:24 | Weblog

王羲之の楷書作品は「楽毅論」「黄庭教」「東方朔画賛」が知られる。
楽毅論は
戦国時代の将軍・楽毅について書かれている、作者は魏の夏侯玄。
宮城谷昌光の小説「楽毅」でも知られる。
光明皇后の臨書が残っている。



王羲之・喪乱帖

2006-06-12 07:59:20 | Weblog

王羲之の作の中でも特に強い筆力が感じられる。
356頃書かれたものが、唐太宗時代に複製され、
奈良時代に正倉院に、以後、桓武天皇から天皇家、近衛家を経て、
明治10年再び天皇家へ、現在は宮内庁・三之丸尚蔵館に蔵される。
これも数少ない双鉤填墨の作例である。

王羲之・快雪時晴帖

2006-06-11 07:23:14 | Weblog

手紙とその他の断簡を綴り合わせたもの。
羲之頓首。快い雪が降り、時には晴れ間がでたりしていますが・・・・
で始まる内容の通り、如何にも悠々自適な生活振りが覗われ運筆も屈託なく平穏さが滲み出ている。
そんな気軽な手紙に中にも王羲之ならではの優美さが随所に見られる。
清の乾隆帝はこの書をこよなく愛し、王献之の「中秋帖」、王の「伯遠帖」と合わせて三希堂に保存した。
台北の故宮博物館にはこの三希堂を模した一角がある。