多くの王羲之の書を集めた太宗だが、
蘭亭序だけはどうしても手に入らなかった。
王羲之の子孫にあたる智永の弟子弁才の手に有ることを知った太宗は、
苦心惨憺の末にこれを騙し取り、終には自墓に副葬させたと言う。
王羲之の真跡は現存しないが真跡に最も近いのが蘭亭序とされている。
太宗が唐代の能筆に臨書、摸刻させた墨跡や模刻は多く伝わっている。
李柏文書は、
竜谷探検隊、ヘディン等により1900年代初頭に発掘された大小22片の古文書で、
行書、草書、章草、楷書の四つの書体が見られる。
行書、草書の完成、楷書の芽生えを示すものとして貴重である。
李伯は正史にも記されている人物で、
この文書が書かれたのは王羲之22歳から24歳の時期に当たる。
一寸脇道にそれる。
前述の陸機は曹植以来の才子とも言われた。
その曹植だが、
曹操の三男として生まれその詩賦の才を曹操に愛されたが、
武人としてよりも詩人として後世に名を残した。
長男の曹丕との王位継承の争いに破れ、
生涯、曹丕の嫉妬と猜疑に追いやられ悲運な生涯を送った。
その曹植の書は残っていない(と思う)が、
琴線をくすぐる詩が幾つも残っている。
「七歩、歩く間に詩を作れ、さもなくば死罪に処する」
と兄曹丕に問い詰められた曹植はその場で詩を作った。
煮豆持作羹
漉鼓以爲汁
箕在釜下然
豆在釜中泣
本自同根生
相煎何太急
豆を煮てそれで熱いスープを作り
味噌を精製してスープの中に入れる
豆がらは釜の下で燃え
豆は釜の中で熱さに耐えられず泣く
豆も豆がらも元々同じ根から生まれ出た兄弟であるのに
何をそんなに急いで豆がらを燃やして豆を煮るのだ
何とも切ない詩だ。
前述の陸機は曹植以来の才子とも言われた。
その曹植だが、
曹操の三男として生まれその詩賦の才を曹操に愛されたが、
武人としてよりも詩人として後世に名を残した。
長男の曹丕との王位継承の争いに破れ、
生涯、曹丕の嫉妬と猜疑に追いやられ悲運な生涯を送った。
その曹植の書は残っていない(と思う)が、
琴線をくすぐる詩が幾つも残っている。
「七歩、歩く間に詩を作れ、さもなくば死罪に処する」
と兄曹丕に問い詰められた曹植はその場で詩を作った。
煮豆持作羹
漉鼓以爲汁
箕在釜下然
豆在釜中泣
本自同根生
相煎何太急
豆を煮てそれで熱いスープを作り
味噌を精製してスープの中に入れる
豆がらは釜の下で燃え
豆は釜の中で熱さに耐えられず泣く
豆も豆がらも元々同じ根から生まれ出た兄弟であるのに
何をそんなに急いで豆がらを燃やして豆を煮るのだ
何とも切ない詩だ。
陸機(261一303年)、
呉の名門に生まれ、呉の滅亡と共に晋に仕官する。
幼時から秀才と称され、晋の高官に、
「呉の領土を手に入れた事よりも陸機を手に入れた事の方が大きい」
と言わしめた、とか。
その書をみてもその表裏に才気が迸り出ている。
索靖(239~303) 、
三国から晋時代を代表する書人として名高い。
後に楷書の神様と言われた欧陽詢が、
或る山中で見つけた索靖の石碑の素晴らしさに惹かれ、
三日間もその碑に見入ったという話が残っている。
鍾ショウは、
魏の要職にあって政治家としてその手腕は高く評価されている。
夜布団に入ってから布団に指で字を書き布団に穴をあけるほどだったと言う。
古書に「鐘は天然(天質自然の妙味)において第一である」とあるが、
無心に自然体で線を連ねた筆法は含蓄に富みリズムすら感じる。
書風は幾分隷意の趣が残る。
「その書は絶世の神品」とされ、
王羲之の師筋とも伝えられたこともあいまって、
後世になると益々その評価が高まった。
現代でも、楷書を学ぶなら鍾ショウとも言われ、
鍾風の書を眼にすることが多い。
しかし、鐘の書として伝わっている書は全て宋・明代の翻刻である
皇象は、
古来より章草の名手と言われ歴史書にも、
「呉国はおろか中国内の能書家にも及ぶものは居ない」
「一代の絶手である」とされ、
後漢に流行した章草の独特な筆法をよく伝え、
切れ味の良さを称えられている。
しかし、
急就章は繰り返しの翻刻で殆ど原型を留めていないとも言われる