アラブの貧しい国、シリア
2017-04-13 23:28:36 | シリア内戦
内戦前、シリアの経済は最悪という状態ではないが、貧困が増えていた。貧困の主な原因は人口増加である。現在シリアの人口は2200万であるが、第2次大戦後は320万であった。
現在の人口が1500万なら、貧困問題も緩和され、経済的観点からは、内戦が起きる原因が消えていただろう。シリアの政権は、戦後から1990年まで人口増加政策を続けた。これは大きな誤りだった。2005年シリアの国民一人当たりのGDPは224国の中で151位である。最貧国に近い。
Demographics of Syria wikipedia
年
人口
±%
1937
2,368,000
—
1950
3,252,000
+37.3%
1960
4,565,000
+40.4%
1970
6,305,000
+38.1%
1980
8,704,000
+38.0%
1990
12,116,000
+39.2%
1995
14,186,000
+17.1%
Source:Onn.Winkler
シリアはもともと、それほど貧しい国ではない。湾岸の産油国のような豊富な油田はないが、自国の消費を賄える程度の油田がある。シリアは昔から農業国であり、食糧を自給している。またシリアは古い歴史を持ち、世界有数の歴史遺跡遺産と遺跡を持ち、観光収入がある。しかし残念ながら他に輸出産業がなく、自由貿易に乗り出したとき、外貨の稼ぎ手が観光だけでは、足りない。
シリアのGDPにおける各分野の割合 2009年
(シリア中央銀行発表)
①工業と石油などの天然資源 25% ②小売り 23%
③農業 22% ④観光 12%
ソ連が崩壊し、経済が破綻すると、ソ連圏のすべての国は経済危機に陥った。これらの国はソ連経済に結びついていたからである。これらの国は否応なく、自由主義諸国に助けを求めざるを得なかった。経済再建のため新たな投資を必要とし、また貿易による発展を求めて、これらの国は自由主義経済に移行した。シリアも同じ道を歩んだ。シリアの自由主義経済への移行は緩やかだっとはいえ、公企業の削減と私企業の成立の過程で失業が発生し、貧富の差が拡大した。これに加え、2007年・2008年の干ばつにより、東北部の農民の多くが破産し、流民となった。
貧困問題はシリア内戦の主な原因となったが、もう一つ重要な原因があった。警察国家への憎しみである。政治警察は法律の制約なしに市民を逮捕し、拷問・殺害した。そして偶然的な外部要因であるアラブの春が2つの不満を爆発させた。シリア内戦の原因は何か、という質問に対し、「アラブの春」と一言で答えた人がいた。アラブ圏内の世論は無視できない影響力を持っている。
また外国勢力がアラブの春の熱狂を利用し、反乱を引き起こした可能性もある。シリアの政権は一貫してそのように主張している。
アラブ諸国は親米か反米かで、2つに分裂していた。サウジアラビアと湾岸の君主国は親米国家であり、エジプトも親米に転じた。米国と敵対していたイラクのサダム・フセインは処刑され、反米国家はリビアとシリアだけになってしまった。2011年リビアとシリアとで起きた反政府運動は、民主化という観点だけで説明することはできない。この2国は、他のアラブ諸国と異なり、欧米に敵対していた。
今回は、アラブ内で孤立しているシリアについての記事を紹介する。著者はベルギー人で、3年間エジプトに滞在し、その間アラブ諸国を訪問している。彼はエジプトを厳しく批判し、シリアに好感を持っている。
=====《Analysis of events of syria》=========
by Kris Janssenn
2011年4月30日
カイロに滞在した3年間、私は、中東・北アフリカ諸国を訪問したが、国民の大部分が極端に貧しいことに気付いた。これらの国々で起きていることを理解するためには、貧困と社会的不正を念頭に置くことが必要である。エジプトには富があり、裕福な人もいるが、昔も今も富と権力はごく少数のエリートに集中している。政治的なエリートは同時に経済的なエリートである。両者の境界は消え、政治権力と経済力を有するのは同じ人間である。これらの富裕なエリートととは対照的に、一般の民衆は過酷な極貧の中にいる。エジプト国民の40%は、国連が定めた貧困水準(1日2ドル)以下の生活をしている。
シリアの状況は全く違う。シリアの政権は過度の社会的不平等と貧困を避けようと努めてきた。生み出された富が公正に分配される仕組みと方法を設定し、働く意思のある者に就職の機会を与えた。貧富の差を緩和するため、健康保険・教育・住居を国民に提供した。団結と正義の精神に基づき、進歩的で社会主義的な労働法を制定した。中東・北アフリカの多くの国々と異なり、シリアの社会は独立以来国民の団結を大切にしてきた。シリアは湾岸諸国のように豊富な資源(石油・天然ガス)を持たなかったが、比較的公正な社会を実現してきた。困難な時期にも粘り強く、勤勉によって目標を達成してきた。
シリアは多宗派・民族国家であるが、日々の生活においてそれぞれの出自は問題とされない。ムスリムであるか、キリスト教徒であるか、またはパレスチナ人であるかは、どうでもよい。あらゆる階層の人々が混合している。出身の宗派・民族を強調したり、質問することは不適切、またはタブーとされた。例えば、パレスチナ人はシリア国民としての市民権を与えられた。健康保険が適用され、パスポートを渡された。他のアラブ諸国に居住するパレスチナ人はこのような待遇を受けられない。
シリアは相手を尊重する社会である。シリアの人は差別、憎しみ、ファーナティズム(狂信)を嫌う。またサウジアラビアがそうであるように、異なる社会集団を見下すようなことはない。サウジアラビアの国民は、厳格で非寛容なワッハーブ主義に従うことを要求される。
シリアの社会を知る者にとって、現在シリアで起きている反乱が国内的な要因によるものでないことは、明明白白だ。外国の陰謀による破壊工作以外の何物でもない。彼らの唯一の目的は、欧米帝国主義に反抗したシリアを処罰することである。最後に残ったアラブ民族主義の国家を叩き潰すことである。
現在起きていることは、過去の歴史と無関係ではない。
シリアは1963年の革命以来、アラブ社会主義の道を歩んできた。特にハフェズ・アサドが政権についた1970年以後、これを国家の基本理念とした。シリアがこの理想にいかに忠実であったか、その例は多数ある。
またシリアはパレスチナ人の主張を常に支持してきた。シリアの土地がイスラエルによって奪われており、パレスチナ人と共通の経験をしている。1967年イスラエルはゴラン高原を占領した。
1975年ー1990年のレバノン内戦の時、シリアはレバノンを支援した。
イラクがイランを攻撃した時、シリアは道義的理由から、誕生したばかりのイラン革命政府を支援した。1980年に始まったイラン・イラク戦争は1988年まで続いた。シリアもイラクもアラブの国家であり、イランを支援することは仲間を裏切ることだった。シリアはこれを秘密にしようとしたが、これを知ったアラブ諸国、とりわけ湾岸諸国から厳しく批判された。
1990年イラクがクェートに侵攻した時、シリアは強い調子でイラクを非難した。
2003年3月米国がイラクに侵攻した時、破局的な結果を予言し、これに反対した。シリアはイラク避難民の多くを受け入れ、150万の難民に安全、居住施設、医療、教育を提供した。シリアは天然資源に恵まれた豊かな国ではないが、隣国の国民の救済に努めた。
欧米がアラブに干渉しようとする時、シリアは防壁の役目を果たした。シリアは一貫して次のように主張した。「アラブの土地と資源はアラブのものであり、アラブのもめごとはアラブ諸国が自分たちで解決すべきである」。
例えばパレスチナのハマスとファタハが争った時、シリアは干渉せず、どちらの側にも立たなかった。両者に施設と援助を与え、彼らが和解するよう促した。
こうしたシリアの汎アラブ主義と反欧米帝国主義の姿勢は、数十年一貫したものだった。これが欧米列強を怒らせ、復讐を決意させた。欧米列強と同盟関係にあるアラブ諸国は、欧米に同調した。欧米列強にとってシリアは罰せられるべきだったし、できることなら破壊されるべきだった。列強と同盟関係にあるアラブ諸国は、国民に支持される政策を持たず、他人に操られる人形のような政権である。もっとも典型的な例は、エジプトのムバラク大統領であり、イスラエルに対し屈従的な彼の姿勢は、国民から軽蔑され、非難されている。
シリアがアラブ民族の自決の権利を放棄し、外国勢力に屈従を約束すなら、シリアとシリア国民に対する侵略は即座に停止するだろう。
現在シリアで起きていることは外国の謀略の結果である。その証拠は、国際メディアの報道内容である。アルジャジーラ、BBC、CNN、アル・アラビーヤなどが、可能な限りあらゆる手段を使って嘘の報道をしている。恐ろしい話や映像により、国民に反乱をけしかけ、シリアについて誤った印象を世界に発信している。チュニジアやエジプトで撮影された映像を巧妙に修正し、シリアで起きたこととして放送するなど、これらの報道機関はためらいもなく事実を改ざんしている。
このような虚偽報道によるプロパガンダ作戦は、欧米のダブル・スタンダードを際立たせている。2006年イスラエルがレバノンを爆撃し、住民のインフラを破壊した時、国連の安保理事会と欧米は、これを議題にしなかった。
2008年12月ー2009年1月のガザ戦争の際、イスラエルの爆撃により、1500人が死亡し、5000人が負傷した。この時も何の反応もなかった。イスラエルのシオニストが50年間近隣のパレスチナへの侵略を繰り返した時、国際社会と国際メディアはこの世に存在しないかのようだった。
湾岸の小国バーレーンのデモが残酷に弾圧されていることは何故報道されないのだろう。米国の第5艦隊の寄港地だからだろうか。サウジと湾岸諸国の軍隊が、バーレーンのデモを信じられないほど冷酷に鎮圧していることは、誰も知らない。欧米諸国はバーレーン国民の団圧を承認し、支援しているからだ。
シリアは10年以上前に改革に着手し、現在も急ピッチで改革を行っている。シリア政府は経済を近代化し、世界経済に適応させるのため、広範囲におよぶ措置をとった。しかし社会と経済を変革するためには時間がかかる。魔法のような方法は存在しない。失業問題の解決は複雑な過程を経なければならない。失業問題はシリアだけの問題ではなく、世界の多くの国が抱えている問題である。ヨーロパも米国も失業率が高い。数週間や数か月でこれを解決できる政府はない。真の改革をするには、何年もかけて新しい枠組みを導入し、その後それを検証し、時間をかけて適正なものにして行かなければならない。
シリアの民主化は急速に進められたので、急に自由になったメディアは、無制限なまでに活発になった。そのなかで人権問題が大きく取り上げられるようになった。シリアは多数政党制であるが、実際には社会主義的なバース党が支配的であり、国民の日常生活を管理し、制限している。
一党独裁は改めるべきであるが、改革と冒険主義は別物である。他国の改革の例で実証された確実な道を進むのではなく、無政府的な混乱に突き進むなら、無法と暴力が支配することになるだろう。これまで不自由だが市民生活は存在した。それさえも失われるだろう。
シリアの政権は経済の自由化を推進してきた。政治的改革にも着手した。これを続けることが着実な改革の道である。冒険に走ることに意味があるだろうか。