シリア騒乱と修羅の世界情勢

第三次世界大戦を阻止するブログです。

イスタンブールサミットカルテットは、シリアの危機の政治的解決に焦点を当てる

2018年10月27日 | シリア
モスクワ、10月26日

ドミトリーピスコフ大統領は、シリアの危機に対する政治的解決に向けた努力を継続する必要性を再確認した。

ノーがあることを言って、それを達成するために彼Peskovシリア危機への政治的解決を見つけるために、客観的に完全に一致、ロシア、ドイツ、フランス、トルコ、イスタンブールの4ウェイサミットへの参加は、明日述べていることを引用し、今日スプートニクを記者団に語ったが、彼らはメカニズムと適切な戦術上の異なるビューです共通のゴールではなく、アプローチにおける矛盾。

Peskovは言った:「サミットの際、特に、シリア情勢に関する意見交換を政治的解決のプロセスをプッシュし、セキュリティと安定性を高めるために、さらなるステップを取るために、国のインフラの経済的・社会的リハビリテーションの変位と再構造の復帰を容易にするだろう。」

Peskovは、今月の第19上で確認、ロシアのプーチン大統領は、彼がブレークスルーまたは重要な意思決定の発行を期待すべきではないことを指摘し、明日のイスタンブールで開催されるシリアの4ウェイサミットに参加します。


ヘスボラにシリアの戦闘機を減らさせようとする金融苦難..その幹部に何を求めたのか?

2018年10月27日 | シリア

 

 
(/・ω・)/頑張れヒズボラ、大好きナスララ
 

ヘスボラにシリアの戦闘機を減らさせようとする金融苦難..その幹部に何を求めたのか?

 
昨年8月の演説で、ヒズボラの事務総長 - 中東オンライン
2018年10月26日金曜日

ヒズボラ民兵は、イランを標的とした大規模な米国制裁のために、シリアでの軍事活動に影響を与えた金融危機を経験している。テヘランの地域同盟国に負の影響を与えている。

報告書の代理店「AP通信(リンクは外部にある)」金曜日にアメリカ、および翻訳のための「ネットシリア」に住んでいる経済的圧力シャドウパーティーの力、後者はされたシリアからの彼の軍隊を撤退を余儀なくする費用を緩和。

ベイルート南部の郊外には大型ポスターが掛かっていた。同部隊には黄色の旗とレバノンの旗が添えられた戦闘機の写真が掲載され、電話番号も付いている。

「これは、後に資金を確保するための最近のヘスボラによる新たな試みであり、イランはドナルド・トランプ大統領の政権制定による財政難の圧力が高まっている」と述べた。

ブリュットの南部郊外にあるヒズボラゲリラの支援を求めるポスター - AP通信

しかし、今年の新たな波は、ワシントンがグループに資金を提供していると主張するヒズボラの最高指導者、ビジネスマン、企業をターゲットにすることについて、より真剣に思える」と同機関は述べた。

ヒズボラに対する米国の最近の制裁は、2018年10月25日木曜日、トランプ氏が国際舞台犯罪防止のための新たな制裁措置を発表し、国際的な場面でより多くを分離すると発表した。

ジェフ・セッションズ米国検事総長は10月15日、ヘスボラを最も重要な5つの国境を越えた犯罪脅威の1つに分類しました。

サポートを減らす

AP通信によると、イランは自らの金融危機に直面しており、イスラエルのヒズボラとシーア派民兵に対する資金援助も減少したという。

国務省は7月、イランがアサドとイラクとイエメンの代理人を支援するために2012年以降160億ドル以上を費やし、ヘスボラに年間7億ドルを提供していると述べた。さらに、アサド政権に40億ドルの借金を提供した、と彼女は述べた。

システムをサポートし、彼の好意で心臓カフを助けるために戦闘機を送っ、強くシリアのアサドと一緒に介入するので、すでに「ヒズボラ」の予算を損傷しました。見積もりは、当事者がその戦闘機の2000を失ったし、数千人を負傷、それらのいくつかは、永久的な障害に苦しんで、これは後者がその死者の家族に給与を支払っているので、パーティーの財政負担を増加させ、そして戦闘機のための医療を提供していたことを示します。

「ベルトを締め付ける」方針は、

ハッサン・ナスララ幹事長は、「制裁は効果がないとは言わない」と述べた。

非公開の会議は、最後の8月/ 8月に行った時、彼はパーティーで、「ナスララ」幹部は言った:代理店「AP通信」Brahamパーマ、シーア派の情勢の専門家、引用誰が「ヒズボラ」について書いとして、「私たちは少しベルトを圧迫する必要があり」レバノンの新聞「アル・ナハール」の利益のために、彼は会議を知らされたという。

彼は「ヒズボラ」は、このような「地域への彼の反対者よりも大きいアサド軍の回復に特に今、シリアの戦闘機の数を減らす」などのコストを削減するための行動を取ること、パーマ米国庁に語ったが、当事者は「家族、医療、年金支払額の給与を削減しないことを言いました"彼は言った。

戦闘機を引き出す

また、引用された機関は、レバノン市民のための彼の親戚の一つは、シリアでのいくつかの戦闘機が、党軍の最近の撤退は、デイル・アル・Zour東部州で、南に、そして「ヒズボラ」の牙城だったレバノンの国境に隣接する短い町、であり続けること、パーティーであります5年前

匿名を条件に米国の機関に話したレバノン人によると、党はまた、フルタイムの戦闘員の一部に、必要がないときに家で時間を過ごすよう要求した。

同機関は、ヒズボラの制裁にもかかわらず、シリアで最も強力なレバノンで最も強力な戦闘集団がミサイル武装と強力な政治構造を誇っていることから、衰退していないようだと指摘した。

圧力他の資金調達のリソースにさらされたとしても、」しかし、ヒズボラは十レバノンの地域でシーア派の大多数にショップ、街、モスクや学校に配置された金属の募金箱の何千ものから流れる、まだ公共の寄付に頼ることができます:「AP通信」 "彼は言った。

国連はテヘランの契約書の条項にコミットしているという報告が認識しているが、米国大統領のトランプは、イランとの核取引から撤退してその間に、イランは、スポンサー「ヒズボラ」の深い経済危機に直面しています。

ワシントンは11月初めにイランに対する石油の制裁を再開し、イラン原油の購入を減らすためにアジアのアメリカ同盟国を既に始めた。

欧州連合(EU)諸国は、この協定を続行したいと述べているが、米国の世界金融市場への影響は、石油会社や航空機製造業者にイランとの協力を断念させている。イランの通貨価値(リヤル)も崩壊し、デモがデモにつながった。

彼らはまた、イランの他の同盟国を準備し、イエメンのフーシあり、困難な時代に、特に大きな収入グループのソースを表しHodeidahのサウジアラビアポート、率いるアラブ連合の包囲で、そしてトレーダーや急激なビジネス上のフーシより税の賦課の結果としてされています。

彼らはバグダッドの政府の資金調達にもあるため、イラクでイランに裏打ちされた民兵が、それらは財政的な圧力から多少保護され、約100,000の戦闘部隊を含む「人気の群衆」として知られている政府によって認識準軍事グループ、の一部、依存しており、これらの民兵を考慮政府から給与と設備を受け取る。多くの民兵は、副作用から利益を得る。

イスラエルのヒズボラ当局者は、「私たちはこのように3年間継続することができる」と匿名を条件に、「彼のグループは、必要なら財政的にヘスボラを助けることができるからだ。

また読んだ:  "人間の場"の体制で投獄されたアサド軍の役人.. "人民会議"のメンバーはそれらを明らかにした

ソース: 
シリアンネット

シリア・アラブ王国(1919年6月ー1920年7月)

2018年10月27日 | シリア

シリア・アラブ王国(1919年6月ー1920年7月)

2018-10-20 18:55:44 | シリア内戦

 

第一次大戦でトルコが敗れ、シリアはトルコから独立したが、独立は1年で幕を閉じた。フランスがシリアの支配者となったからである。シリア国民は独立を奪ったフランスを憎み、1年間の独立期をシリア国家の出発点と考えた。短い独立期のシリアは「シリア・アラブ王国」と呼ばれる。国王はメッカの太守の3男ファイサル・アリーであり、シリアにとってよそ者であるが、ファイサルは現地のシリア人に統治をまかせたので、シリア・アラブ王国はシリア国民にとって自分たちの国であった。

トルコ帝国の解体後、シリアがシリア国民のものとなったのはたった1年であり、その後シリアはフランスの支配下に入った。冷酷な帝国主義の原則が貫かれたのである。この点を抜きにフランス統治時代のシリアを理解することはできない。またシリア・アラブ王国時代とフランス統治時代は近代シリアの形成期であり、シリアという国の基本的な特徴が表れている。これらの特徴は第2次大戦後のシリアを理解する鍵となっている。

シリア・アラブ王国時代の国王ファイサル・アリーはアラビアのロレンスとともにアラブの反乱を指揮した人物である。シリアが一度は独立できた経緯、そしてそれが消滅した理由について書いてみたい。

 

       《アラブの反乱》

19世紀後半オスマントルコ帝国の弱体化が明らかになっていたが、大一次大戦の後半には、オスマントルコ帝国の解体は必須と思われた。英・仏はオスマン帝国の分割を考えていたが、帝国内のアラブ民族の間には独立の動きがなかった。トルコ帝国の軍隊に所属していたシリア人将校が反乱に踏み出すことはなかった。こうした中で唯一反乱を起こしたのはメッカのハーシム家である。メッカはイスラム教の聖地であるが、トルコ帝国の辺境部である。トルコ中心部に近いシリアやイラクでは反乱は起こらず、遠いアラビア半島で起きたのである。

 

 

ハーシム家のフサイン・イブン・アリーはオスマン帝国からヒジャーズ地方を支配するアミール(太守)に任じられていた。彼はオスマン帝国による弾圧や抑圧に対し不満を持っていた。フサインはオスマン政府が戦後に彼を廃位しようとしているという証拠をつかんだため、1915年頃からイギリスの外交官で駐エジプト高等弁務官のヘンリー・マクマホンとの書簡を交わしていた。この書簡は後にフサイン=マクマホン協定と呼ばれるが、この書簡でフセインは、三国協商の側について協力することにより、エジプトからペルシャまでの全域を包含するアラブ帝国を建国できると確信した。

1916年6月10日、フサイン・イブン・アリーはオスマン帝国からの独立を宣言し、ヒジャーズ王国が誕生した。しかしメディナには強力なトルコ軍がいて、フサインの部隊はこれと正面から戦うだけの力がなかった。フサインは5万人の軍勢を組織していたが、当時ライフルを持っていたのはそのうちの1万人にも満たなかった。アラブ軍はトルコ軍の本拠地があるメディナを攻撃する能力ははなく、比較的少数の守備隊しかいない紅海沿岸部の港町を攻略しながら北上した。

 

 

 

アラブ軍の軍事顧問となったのがアラビアのロレンスである。トーマス・エドワード・ロレンスは英国の諜報員としてメッカに派遣された。エジプトの英軍の目的はパレスチナからダマスカスまで侵攻することだったが、戦力が不十分だった。そのためアラブ軍を利用し、これにトルコ軍をかく乱させることにした。アラビア半島にトルコ軍をくぎ付けにし、その隙にエパレスチナを攻略するつもりだった。

英軍がアラブ軍の力を借りなければならなかった状況をよく示しているのは、イラクで英軍がトルコ軍に敗北していたことである。

1914年末、英軍はイラクに上陸したが、一年後トルコ軍に包囲され全滅の危機に陥った。これを救出するため、総勢2万の援軍を送ったが、犠牲者を増やすだけで失敗に終わった。ドイツとの戦いが終了し、対トルコ戦に本腰を入れれば別であるが、そうでなければトルコ軍はあなどれ内的だった。

アラブ軍を利用しようとする英国とアラブの独立を願うメッカのフサイン・アリーの間には溝があった。ロレンスは間に挟まれ、苦労することになる。ロレンスがメッカに派遣されたのは1916年10月である。

メッカの太守は遠大な野心を持ち、広大なアラブ地域の独立を目標としていたが、こうした考えがアラブ軍に浸透していないこともロレンスの指導を困難にした。兵士の多くがアラブ全体の独立という発想を理解していなかった。アラブ軍がトルコの鉄道の爆破に成功した時の話である。鉄道を停止させ貨車に積んであった馬などの積荷を獲得すると、兵士の一部は満足して故郷に帰ろうとした。彼らにとって作戦は終了したのである。

ウィキペディア(日本語)には「アラビアのロレンス」と「アラブの反乱」という項目があるので、詳しくはそちらをお読みいただきたい。

 

アラブ軍は幾度も挫折しかけながら、ロレンスも一度は任務を放棄しながら、英軍の作戦の地ならしを続け、北上した。アラブ軍がダマスカスに入場すると、ダマスカスの市民は熱烈に歓迎した。ダマスカスの市民もシリア各地の人々もみずから反乱に踏み出すことはなかったが、アラブ軍の到着を喜び、この日以来彼らの多くがアラブ民族主義者となった。

 

アラブ軍がダマスカスに入場したといっても、英軍がトルコ軍に勝利した後である。トルコ軍と英軍の決戦がパレスチナ北部でおこなわれ、英軍が勝利していた。英軍は1918年9月30日ダマスカスに入場した。続いて10月3日アラブ軍がダマスカスに入った。その後英軍はアレッポまで進撃した。パレスチナとシリアの攻略に成功したのは英軍である。アラブ軍は前哨戦で活躍し、英軍の勝利のための地ならしをした。

パレスチナ北部で敗れたトルコ軍は兵器が不足しており、兵士の士気が落ちていた。トルコ軍は4年間の戦いで疲弊していた。前哨戦でのアラブ軍の活躍を知り、トルコ軍内のアラブ人将兵はトルコのために戦うことに疑問を持ち始めた。実際に軍を離脱する者もいた。

パレスチナ北部の決戦はパレスチナとシリアにおけるトルコの支配を終わらせた点で重要である。

ウィキペディア(日本語)には「メギッドの戦い」という項目があり、戦況が詳しく書かれている。

 

       《英国の2枚舌》

アラブ軍は英軍の勝利に便乗してしてダマスカスに入場しただけだったが、英国はメッカの太守フサイン・アリーに独立を約束していたので、ダマスカスを首都とするシリア王国の誕生を認めた。これは前哨戦においてトルコ軍をかく乱したことへの代償だった。ただし約束にはあいまいな点があった。フサインはエジプトからペルシャまでの全域を包含するアラブ帝国を建設を求めていたが、英国はこれを受け入れるつもりはなく、独立アラブの領域はシリアとヒジャーズだけと考えていたようである。

駐エジプト高等弁務官のヘンリー・マクマホンからフサインへの手紙(1915年10月24日付)で、マクマホンはシリアを約束したがレバノンを除外している。エジプト・パレスチナ・イラクについては何も約束していない。

英国はフサインにアラブの独立を約束する一方で、フランスと秘密協定を結んでいる。内容はオスマン帝国の分割に関するものであり、フサインとの約束と矛盾するものだった。秘密協定によればシリアはフランスの影響圏になっている。英国がフサインとの約束を守ろうとするなら、フランスとの密約を破棄しなければならない。もし破棄する勇気がないなら、英国がフサインに与えることができるのは、ヨルダンとイラクである。

 

 

英・仏間の秘密協定はフサインの蜂起直前の1916年5月16日に結ばれた。協定の折衝にあたったのはイギリスの政治家マーク・サイクスとフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコである。秘密協定は2人の名をとって、サイクス・ピコ協定と呼ばれる。

 

フランスが直接統治したかったのはアナトリア東部とレバノンであり、シリアは影響圏でよかった。ところがサイクス・ピコ協定は修正されることになった。

トルコが降伏し、連合国がトルコを占領中だった19195月ギリシャ・トルコ戦争が勃発し、3年間の戦いの後トルコが勝利した。その結果サイクス・ピコ協定を反映していたセーブル条約が修正された。シリア・イラクについては変更がなかったが、アナトリア全域はトルコ領になった。フランスは最も獲得したかったアナトリア東部を失った。そのためフランスは影響圏でよいと考えていたシリアの直接統治を考えるようになった。

シリアにアラブ国家の建設を望むフサインとフランスの対立が鮮明になった。

 

     《シリア・アラブ王国の成立》

ロレンスとともにアラブ軍を率いていたのはメッカの太守の3男ファイサルである。アラブ軍のダマスカス入場後、新たにシリア政府が誕生し、ファイサルが臨時政府の首班になった。彼はメッカ出身であり、ダマスカス市民にとって外来者であるが、政府に多くのシリア人を登用したので、シリア人はファイサルを支持した。

1919年1月パリ講和会議にファイサルはアラブの代表として出席し、オスマン帝国領アラブ地域の民族自決の原則による独立と主権の承認を求めた。しかしシリアを支配するつもりでいるフランスがファイサルの要求に反対した。

アメリカ合衆国が調停に乗り出し、住民意向調査を行なう委員会が設置された。委員会の2名が1919年6月に現地に入って調査を開始した。

 

19194月ファイサルは帰国し、6月議会選挙が行なわれ、全シリア議会が開催された。この議会において、シリアの独立とファイサルを国王とすることが議決された。

 

1919年8月アメリカ合衆国代表2名による住民意向調査委員会の調査報告書が出され、次のように今後の措置が提案された。

①パレスチナ、レバノンを含むシリア地方は、ファイサルを国王として単一の立憲君主制国家とし、期間を設けて合衆国またはイギリスの委任統治とする。ただし、レバノンはキリスト教徒の自治を認める。

②イラク地方はアラブ王家から人民投票により適当な人物を国王に選んで単一の立憲君主制国家とし、シリア同様に委任統治とする。

 

この委員会報告に対し、フランスはイギリスの陰謀であると非難し、イギリス国内では対フランス関係が悪化するとの懸念と、シリア地方における英軍の駐留経費が問題となった。このため、1919年9月イギリスはシリア地方から撤退すると発表した。シリア西部はフランス軍、東部はアラブ軍と交替し、パレスチナ及びヨルダン川東岸だけ駐留を続けるとになった。

この決定によりフランスは9月にシリアへ派兵を開始した。同じ9月にファイサルはロンドンでこの通告を受け、抗議したもののこれが受け入れられなかったため、フランスと交渉を行なった。折衷案が成立した。ファイサルはレバノンを放棄し、シリアについてはフランスの保護国となることを認め、アラブ政府の承認をとりつけた。

1920年1月帰国したファイサルに対し、シリアの指導者はフランスがつけた条件を容認できないと非難し、即時完全独立を求め、ファイサルもこれに同調せざるを得なかった。同月、散発的な武装蜂起がシリア各地で起こり、フランス・シリア戦争が始まった。

 3月8日シリア議会が開会され、同議会はパレスチナ及びレバノンを含む全シリアはファイサルを国王とし、立憲君主制国家として独立することを再度宣言した。

パリ講和会議以後の部分はウィキペディア「フランス委任統治領シリア」から引用した。

レバノン分裂の原因は宗派対立ではない

2018-10-13 17:46:05 | シリア内戦

 

 

ダマスカスからベイルートは比較的近い。ホムスへ行くより近い。シリアの幹線道路1号線はベイルートに向かっている。オスマン帝国時代ベイルートはダマスカス州に所属していた。このことを思い起こすなら、1975年ー1990年のレバノン内戦にシリアが干渉したことを、侵略と呼ぶのは適当ではない。海を越えた遠い異国を植民地にするのとは違う。米国による中東支配のほうが「外国の干渉」と呼ぶにふさわしい。実際アラブの世論は常にそのように主張してきた。

15年続いたレバノン内戦はシリアが仲裁者となることで終了した。内戦中に多くのキリスト教徒がレバノンを去り、国外に移住した。キリスト教徒はレバノンの支配階級ではあるが、人口に占める割合は多くない。キリスト教徒の国外脱出によりさらに人口が減り、彼らがレバノンを支配し続けることは難しくなった。オスマン帝国時代末期から続いたキリスト教徒によるレバノン支配は終わりをむかえた。

内戦によりキリスト教徒とイスラム教徒の勢力が逆転したが、内戦の国際的な構図は残り、内戦終結後イスラエルとシリアは抗争を続けた。

 

     《レバノンをめぐる国際的な緊張》

イスラエルにとってレバノンもシリアも隣国である。イスラるの北がレバノンであり、北東がシリアである。シリアレバノンが一体化し軍事力を持つ日が来るなら、イスラエルの生存が危うくなる。そしてそれが現実となりつつある。

2003年米国がイラクに侵攻し、サダム政権が倒れた。イラクにおけるスンニ派とシーア派の地位が逆転し、シーア派が優位に立つようになった。シーア派の指導者の多くは、サダム政権時代イランに亡命した経験を持つ。イラン政府の庇護のもと、イランに亡命し力をつけた政党が現在イラクの主要政党となっている。イランで成立した軍事組織は現在正規軍と互角の軍事力を有している。

イラクにおけるシーア派の地位は揺るぎないものとなっている。そして彼らの背後にはイランがいる。イランはシーア派の国であり、カルバラなどイラク南部のシーア派の生地は、イランのシーア派にとっても重要な聖地である。

イランは内戦に苦しむアサド政権を窮地から救い、シリア各地に軍事拠点を持っている。イランから地続きでイラクとシリアにイランの影響圏ができあがった。この影響圏はレバノンまで延びている。レバノンのヒズボラは全面的にイランに依存している。

2000年代イランの大統領だったアフマディニジャドが国連で演説した。「イスラエルという国は消滅するだろう」。直訳は「イスラエルを地図から消してやる」である。国連加盟国を消滅させるという発言は禁句であり、これを聞いた各国代表は席を立ち、退場した。

一般の人にとってアフマディニジャドの発言は、少し変人の大統領がまた過激なことを言っている、という程度だったが、当のイスラエルは内心穏やかではなかった。

そしてシリア内戦がアサド政権の勝利で終わりそうになる2018年には、イラン本国からイラク・シリア・レバノンへ続くイラン回廊が完成した。変人アフマディニジャドの言葉は、現実味を帯びてきた。イスラエルの恐怖は相当なものであり、20189月、ネタニヤフ首相は「先制攻撃の必要性」を説いている。

 

レバノンのキリスト教徒の優位が失われた最大の原因は人口に占める割合が低下したためである。しかしレバノンの経済的繁栄を支えてきたのは彼らである。イスラム教徒側は政治的に優勢になったとはいえ、キリスト教徒と妥協しなければレバノンの繁栄はない。またキリスト教徒はイスラエル・サウジアラビア・米国から支援されており、キリスト教徒が極端に圧迫されるなら、再起をかけてイスラム教徒による支配に挑戦するかもしれない。1990年の内戦終結からシリア内戦開始までの20間レバノンは微妙な均衡状態にあった。シリア内戦が始まると、均衡は破れつつある。

 

   《レバノンの歴史が教えること》

1943年レバノンはフランスから独立したが、その後の歴史はキリスト教徒とイスラム教徒の間に妥協が成立しては破たんするということを繰り返してきた。そして1975年遂に内戦に突入した。妥協が破綻する原因はほとんどの場合国内問題が原因ではなく、中東情勢に巻き込まれた結果国内が分裂したのである。イスラエルの隣国であり小国であるレバノンはイスラエル対アラブの紛争から距離を持つことはできなかった。

 

       《レバノンの大統領の条件》

レバノンのキリスト教徒の指導者の中には、レバノンはキリスト教国であり、キリスト教徒が国家を運営すべきであると考える者もいた。彼らは下層民であるイスラム教徒に対する譲歩を不要と考えた。紛争や内戦で活躍するのは彼らであるが、平時において彼らの代表が大統領になることはなかった。多数派であるイスラム教徒の支持を得なければレバノンは安定しない、と考えるキリスト教徒が代々大統領になった。大部分のキリスト教徒とイスラム教徒はレバノン国民という共通の意識を持っており、キリスト教徒の指導者であってもイスラム教徒の支持を得ることはできたのである。

「キリスト教徒とイスラム教徒の対立は避けることができる」と独立後のレバノンの歴史は教えている。宗教は異なってもレバノン国民という共通意識があり、指導者がこの意識に配慮した時期のレバノンは安定し繁栄した。レバノンは地中海に面し、海路でヨーロッパとつながっているので、経済発展のチャンスがある。レバノンの良き時代が突然破られるのはアラブとイスラエルの対立に巻き込まれたからである。小国は国際紛争に巻き込まれやすい。レバノンは中東の動乱に翻弄されたのである。

冒頭でシリアとレバノンの距離的近さについて述べた。ダマスカス市民にとって、北東部のハサカやデリゾールより、レバノンのほうが身近だった。植民地帝国フランスは

レバノンとシリアを分断した。この行為は後々まで非難されるだろう。しかし1920年レバノンはシリアから分離し、1943年独立国となり、人々のの間にレバノン国民という意識が定着していった。現在では、「レバノンはシリアの一部だ」と主張することは無理がある。1943年以後のレバノンの歴史について知ると、レバノンは独立国として歩むのがよいと思えてくる。

レバノンノンの宗派対立は根本的なものではなく、実はどこの国にもある階級対立である。国家権力は富裕階級と結びつくのが常であり、貧困層の問題を放置すれば、どこの国も国家分裂の危機になる。


オスマン帝国時代のレバノンとシリア

2018年10月27日 | シリア

 

オスマン帝国時代のレバノンとシリア

2018-09-29 23:26:03 | シリア内戦

シリアは米国にとって敵国である。これはシリアがアラブ民族主義路線を捨てないからだ。アラブ民族主義は欧米による中東支配を終わらせることを目的としており、中東に大きな利権を持つ欧米諸国を中東から追い出すことを考えている。

米国は2001年以来アサド政権を倒そうと考えてきた。代わりに、親米的な政権を打ち立てるのである。2003年米軍がイラクを占領すると、シリアはこれに反対し、反米テロリストをイラクに送り、またテロリストが自国を通過するのを許可した。これに対し米国は「シリアは滅ぼされるべき国家」であると宣言した。

2005年レバノンのハリリ元首相の暗殺を契機に、米国はシリアの反体制派を支援し、アサド政権転覆のチャンスをうかがった。

ハリリ元首相の暗殺はレバノンをめぐるイスラエルとシリアの対立を象徴する事件である。イスラエルの背後には米国がおり、シリアの背後にはイランがいる。1980米国年のイラン革命以来米国とイランは敵対関係ニある。レバノン内戦は1990年に終了したが、内戦の構図は残っている。

2006年7月イスラエ軍がレバノンに侵攻したが、ヒズボラの抵抗にされ、やむなく退却した。アラブ・イスラエル戦争においてイスラエルは4戦全勝であり、勝利なくして退却したのは、この時が初めてである。イスラエル軍と戦ったのはヒズボラだけでなく、レバノン南部から多くの志願兵が集まった。ヒズボラはもともと士気が高いうえに、志願兵も祖国防衛の意識が高かった。

4回の戦争でも、イスラエルが敗北しそうになった局面はあり、そこから逆転するのがイスラエルである。対レバノン戦では戦争を途中で放棄しただけで、イスラエル軍が弱体化したとまでは言えないが、ヒズボラを甘く見たのは明らかに誤算だった。今後ヒズボラの武器が増強されるなら、逆にヒズボラがイスラエルに侵攻する可能性がある。

ヒズボラの背後にはイランがいる。イランはヒズボラ結成結成以来の変わらぬ支援者である。ヒズボラは長年イランからの武器・資金の援助を認めず、「イランは精神的な支援者である」と述べてきた。2012年ヒズボラの指導者ハッサン・ナスララはイランから資金と武器を得ていることを認めた。イランの指導層には「イスラエル国家を消滅させるべきである」と考えるグループがいる。ヒズボラがイランの先兵としてイスラエルに戦いを挑む日が来るかもしれない。これはイスラエルにとって悪夢である。シリア内戦の2年目(2012年)、イランの革命防衛隊がシリアで活動していることを知ると、イスラエルの首相は動揺し、オバマ大統領にイラン攻撃を催促した。

イランの革命防衛隊はアサド政権を援助するためにシリアに入った。彼らは少数であり、自ら戦闘に従事するのではなく、アサド政権側で戦う民兵を組織していたのである。

これに恐怖をおぼえるイスラエルの心理は理解しがたいが、イスラエルとイランの対立が深刻であることは事実である。

シリアはイスラエルとの戦争を避けているが、レバノン問題ではイスラエルと対立している。シリアはレバノンの隣国であり、レバノノンに対し影響力がある。レバノンは民族構成が複雑で独立後も内紛が絶えなかった。シリアは中立な立場で、仲裁者としての役目を果たした。しかし1975年にレバノンで内戦が勃発すると、シリアは対立に巻き込まれてしまう。

レバノンの支配的な勢力はキリスト教徒であるが、人口に占める割合は過半数に程遠い。彼らは伝統的にレバノンの支配階級であり、彼らの経済活動はレバノン経済の大部分を占める。イスラム教徒の多くは地方の農民か都会の庶民である。1958年イスラム教徒が反乱を起こしたが、米国海兵隊によって鎮圧された。

レバノンは地中海貿易で繁栄しており、ヨーロッパとの交流が盛んである。また彼らの宗教はヨーロッパと同じである。アラブなまりがない標準的な英語を話すレバノン人も少なくない。

その一方で、レバノンはシリアと関係が深い。オスマン帝国時代シリアとレバノンの間に国境はなかった。第一次大戦後の1920年3月、シリアの議会は次のように宣言した。

「パレスチナ及びレバノンを含む全シリアはファイサルを国王とし、立憲君主制国家として独立する」。

フランスがこれを無視したため、5月シリア議会は完全独立の要求と委任統治拒否を議決した。

7月はじめ、レバノンに進駐していたフランス軍はダマスカスに向けて進軍を開始し、ファイサル国王に委任統治受諾を要求した。国王議会はは独立を主張し激しく反発したが、国王は議会を解散し、フランスの要求を受け入れた。

7月23日フランス軍はダマスカスを占領し、28日ファイサル国王をダマスカスから追放した。ファイサル国王はイタリアへ逃れた。

8月10日セーヴル条約によりパレスチナがシリアから切り離され、英国が統治することになった。

 

  

セーブル条約で新たに生まれた国境線は住民の民族構成や経済的一体性を無視し、かなり乱暴に決められた。アレッポ県は南北に分断された。日本語ではアレッポの古代・中世の呼び名はハレブとされてきた。オスマン時代はアレプと呼ばれたようだ。

仏領シリアと英領イラクの境界線も乱暴に決められた。

  

 

次にフランスが統治することになったシリアについてみてみたい。

セーブル条約の翌月フランスのグーロー高等弁務官がシリアを5分割し、各地域に知事を置いた。

 

ゾール県はアレッポ州とダマスカス州に分配され、消滅した。南部のドゥルーズ派に独立した領域が与えられた。北部のクルド人には独自の領域が与えられなかった。

           〈ジャバル・ドゥルーズ州〉

ジャバルは山という意味であり、ジャバル・ドゥルーズ州をあえて訳せば山岳ドゥルーズ州となる。ドゥルーズ派は元来エジプトのシーア派(イスラム教)だったが、1000年代の前半エジプトから逃れシリアの山岳地帯に住み着いた。彼らは団結心が強く、自分たちの伝統に忠実である。ドゥルーズ派はフランスの高等弁務官から独立した領域を与えられたにもかかわらず、1925年反乱を起こしている。高等弁務官がシリアに近代的な制度を持ちこもうしたが、それはドゥルーズ派の伝統を破壊することになった。フランス統治下のシリアでは、ほとんどの地域がフランスによる支配に不満を持っており、不満を行動に示したドゥルーズ派は尊敬された。

      〈大レバノン州〉

何故小さな領域しかないレバノンが大レバノンと呼ばれているのか。その理由を知ることは1975年から1990年まで続いたレバノン内戦の原因を知ることでもある。

少し遠まわりになるが、オスマン帝国時代のレバノンについて説明したい。

     

オスマン帝国時代、レバノン地方はいくつかの県に分かれていたが、中核部分はレバノン県だった。この地域は港湾都市ベイルートとその後背地からなっていた。後背地の東北端にレバノン山があり、レバノン県は古い時代からレバノン山地方と呼ばれてきた。県名もレバノン県ではなく山岳レバノン県と表記されることもある。19世紀になるとベイルートが経済的に発展し、レバノンで最も重要な都市になるが、この地域は伝統に従いレバノンまたはマウント・レバノンと呼ばれていた。

  

上記の地図は1888年以後のものであり、それ以前はベイルート州は存在しない。レバノン地方の各県はダマスカス州に所属していた。

地図には変則的な点がある。ベイルート市はレバノン県に所属せず、南隣りのベイルート県に所属している。ベイルート県とされている地方はシドン地方であり、本来シドン県とすべきである。この奇妙なやり方の原因はレバノン県はキリスト教とドゥルーズ派の間で内紛があり、ベイルート市は混乱に巻き込まれるのを避け、離脱したのである。ベイルート市は新たにシドン地方を得たうえ(ベ、レバノン地方はベイルート州と呼ばれることになった。ベイルート県とベイルート州の創設の原因となった1839年ー1860年の内紛はレバノンが抱える問題を鮮明にしている。20世紀後半のレバノンの複雑なを理解する助けになる。

         《オスマン時代のレバノン内戦》

レバノン県の主要勢力はキリスト教徒であり、ベイルートを拠点に地中海貿易に従事し、富を築いている。しかし、レバノン県の南部はドゥルーズ派(イスラム教)の居住地となっている。1839年トルコ政府は近代化の改革に着手した(タンジマート改革)。改革には宗教的差別の廃止が含まれていた。これはイスラム教徒の特権を否定することであり、イスラム教徒のドゥルーズ派は格下げされたと感じた。これが引き金となってキリスト教徒とドゥルーズ派の間の紛争が発生した。紛争は2年経過しても終わらなかった。1842年12月トルコ政府はレバノン県を南と北の地区に分けるよう、ダマスカスの州知事に要請した。しかしこの対策は外国の圧力によるものであり、キリスト教徒とドゥルーズ派の間の対立はかえって深まった。

1858年キリスト教徒内部の分裂が明らかになった。重税に苦しむキリスト教徒の小作農がキリスト教徒の地主に封建的特権の廃止を求めた。地主が要求を拒否したので1959年1月、農民は武装反乱を起こした。ケゼルバン地方の領主たちは追い出され、農民が土地と建物を接収した。

     

ケゼルバン地方の反乱は他の地方にも影響を及ぼし、キリスト教徒の農民はドルーズ派の地主に対しても武装反乱を起こした。ドルーズ派の領主は武装農民に対する防衛のためドルーズ派の民兵を組織した。1842年レバノン県は南北に分断され、北部はキリスト教地区、南部はドゥルーズ派地区とされたが、キリスト教地区にもドゥルーズ派が住んでおり、ドゥルーズ派地区にもキリスト教徒が住んでいた。

1859年8月北部でキリスト教徒農民とドゥルーズ派農民が衝突した。キリスト教の司教がレバノン県の委員会に軍隊の介入を要請した。しかし軍隊の派遣を待たずドゥルーズ派領主の民兵が農民の争いの仲裁に入った。

農民の若者20名が死亡した。

これを契機にドゥルーズ派領主は戦争の準備を始めた。トルコ政府はこれを黙認した。一方キリスト教の司教はキリスト教徒農民に武器を配り始めた。

これは北部のキリス教地区で起きたので、住民構成はキリスト教徒が多数派だった。キリスト教徒に武器が渡るなら、彼らが優勢であることは明らかだった。しかしダマスカス州全体ではイスラム教徒が多数派であり、また彼らはキリスト教徒に反感を持っていた。トルコ政府の近代化政策により、宗教が平等化され、イスラム教徒は特権を失い、リスト教徒と同等になってしまったからである。

ダマスから最も近い大都市はベイルートであり、レバノン県はダマスカス州に属している。ベイルートとダマスカスは幹線道路で結ばれており、両都市間の往来はかなり容易である。現在もシリアの幹線道路1号線はベイルートに向かっている。

 

レバノンのキリスト教徒は、ダマスカスのイスラム教徒の感情をよく知っており、恐怖を持っていた。そしてこの恐怖が現実になる。

レバノン県の事件が翌年ダマスカスに波及する。

1860年7月9日ー11日、ドゥルーズ派とスンニ派がダマスカスのキリスト教徒を虐殺した。トルコ軍は計画段階でこれを承知しており、黙認した。2万5000人が死亡した。米国とオランダの領事も殺された。死者の数は1万5000人という説もあり、正確な数字は分からない。教会と宗教学校は焼き討ちされた。こうした中で郊外の貧民地区のキリスト教徒は隣人のイスラム教徒によって守られた。よって守られた。

(参考)wikipedia:1860 Mount Lebanon civil war

              《 フランス統治下のレバノン》

第一次大戦後レバノン州は他の州とともにフランスの統治下に入った。フランスの高等弁務官はオスマン時代の県境と州境を無視し、新たに6つの州を設定した。この際レバノン州の州境が東にずれ、領土が増えた。これはレバノン州の指導者が内陸部の土地を拡大することを望んだからである。これはダマスカス州の領土を切り取り取り、レバノン州に与えることだった。ダマスカスのスンニ派にとって不利益であり、レバノンのキリスト教徒にとって有益なことはフランスの高等弁務官の望むところだった。オスマン時代のレバノン州を小レバノンと呼び、フランス統治時代のレバノン州を大レバノンとよぶことになった。

上記の地図の中に、小レバノンと大レバノンの違いがよくわかるものがある。Keserwan Districtと書かれた地図には、レバノン山脈が示されている。伝統的な小レバノンは地中海とレバノン山地の間の地域である。フランスが設定した大レバノンはバノン山脈の東側の部分も含んでいる。

支配者は領土を得ることしか考えない。砂漠でもない限り土地には人が住んでいる。大レバノンは新たにスンニ派とシーア派を多数抱えることになった。彼らはイスラム教徒である。これまでドゥルーズ派以外のイスラム教徒は無視できたが、スンニ派とシーア派が増えたために、人口の点で彼らは第3の勢力となった。

これまでキリスト教徒と述べてきたが、正確にはマロン派キリスト教徒である。レバノンにはギリシャ正教徒もいるが少数であり、話を単純にするため無視してきた。

      

 

        《レバノン内戦 1975-1990年》

第三の勢力となったスンニ派とアラウィ派の多くは地方の農民か都市の下層階級であり、政治参加の意識も弱く、当分の間問題を起こすことはなかった。

ところが1970年ヨルダンから追い出されたパレスチナ解放機構(PLO)がレバノンに逃げ込んできた。情けない話だが、レバノンの軍隊は彼らを追い出すだけの軍事力がなかった。PLOはイスラエルを敵とする軍事集団である。レバノンはイスラエルと国境を接している。イスラエルとPLOは一触即発の状態となった。貧しいイスラム教徒はマロン派の富裕階級に不満を持っており、PLOの存在に励まされ、武装グループを結成した。マロン派は以前から民兵組織を有していたが、イスラム教徒の武装組織に対抗するため新たに民兵組織を結成した。彼らはイスラエルの支援を受けた。

イスラエルとPLOの対立がレバノン内戦の原因であるが、最初に武力衝突したのはマロン派(キリスト教徒)とイスラム教徒である。レバノン内部の階級対立という形で内戦が始まった。両者の戦闘が長引くにつれ、キリスト教徒とともにレバノン支配の一翼を担っていたドゥルーズ派もイスラム教徒の側に立って参戦した


10億リラの電力を復元するダマスカスの田舎それは何だった.

2018年10月27日 | シリア

 

10億リラの電力を復元するダマスカスの田舎それは何だった..そしてQuneitraの約30億の損害ネットワーク!

 2018年10月24日水曜日08:57 | 新聞、 地元の新聞

  10億リラの電力を復元するダマスカスの田舎それは何だった..そしてQuneitraの約30億の損害ネットワーク!

共同|
 
 

Juhayna News

Tishreen新聞はのために2018年にはこれまでの2018年の初め以来、ダマスカス州の田舎での変換の中心の値として、公共の電力会社がやっていることに10月24日(水曜日)、20億にその版でその着目しました。O、約20億リットルの敷設の総コスト。約3億人の塔があります。S. 約204のコンバージョンセンターとミディアムラインが開発、維持、リハビリされています。

再構成のための電力の省への計画の一環として東Ghouta VTMにおけるリハビリテーションプロジェクトの数は、中、低カフルバトナとネットワークで約10ターニングセンタ、および14中央Sakbaに変換、2つのブリッジとShebaaファームベイトジャンの各々に集中変換、および転送の中心を置く実装されています両方の旋回中の1つ及びsnickとZamalkaとアインタルマ、およびハラン列の4モード変換センターとアービン6は、AldhadelとOtaibaとAlspinh中心に15変換、Alderkhbayh 7つのアダプタの両方に中心を回し、電気アルNashabiyahの部門の領域11を開発しました。センター、Drusha、魅力的なMeer、Khazrajiehのエリアに8つの変圧器を設置 5つのMarjアルスルタンにアダプタ、ならびに中、低、および32の電気タワーネットワーク。

ザバダニ、ダマスカスおよびダマスカス地区、およびKhirbet Khbeibaは、中および低電圧ネットワークに供給された。

維持するために、電気ダマスカス約25断固好気ケーブル平均の開発を通じて空港の田舎のリハビリテーション及びメンテナンスのワークショップによって働いているJaramana 10の空気圧ブレーカを入れて、好気的に断固20を配置することによって、電気クラッド部のリハビリテーションおよび維持に加えて、カラム及びタワーを変更し、塔の数列、および電気学科リハビリテーションは常に領域、および丘の電源部で木製の柱や塔の交換による電気のアル・Nashabiyah部門のリハビリやメンテナンスに加えて、電気柱と鉄カラムモードでした。

ケニトラの電気のディレクターは、リハビリ作業はIOBAステーションネットワークからの電力の伝送をリンクするために75列と州の中央部門の町Mshrhと春の岩とSoash間の電気系統のラインのリハビリのためにシリアの企業ネットワークと協力して作業計画の緊急の開始のための準備と並行して起こっていると付け加えました北部の村や町はるか南の州や企業で利用可能な機能に応じて塔と列の50キロとインストールの長さの村Rafidに南部のセクターのセクターのアクセスでは、当局およびサービス機関との協力と連携して電力会社を運営するには、再急速にあります Ohelインフラストラクチャおよびサービスインフラストラクチャ、彼らの家に避難民の帰還と並行して、特に電気や水、スレイマンは、ここ数日の間にアブHbthとHamidiyaを描く、Oovannia、自由の村への電源供給の復帰の開始を指摘しました。

 

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Al-Jaafari:シリアはIdlibがテロリズムのための洞窟に変わるのを許さない

2018年10月27日 | シリア

 

Al-Jaafari:シリアはIdlibがテロリズムのための洞窟に変わるのを許さない

 2018年10月26日金曜日18:27 | ポリシー、 ローカル

 Al-Jaafari:シリアはIdlibがテロリズムのための洞窟に変わるのを許さない

共同|
 
 

Juhayna News

国連博士バシャール・アル・Jaafariにシリアの常駐代表は、シリア政府は創業以来、ジュネーブ協議に参加しており、国連や国際機関のすべての使節を扱った危機への政治的解決に達することを目的に協力することを強調しました。

Jaafariは、欧米諸国は、国連憲章に違反し、歴史の中で前例のない彼らに対してテロ戦争をするためにシリアに謀反を企てていたことを中東情勢に関する国連安全保障理事会のセッションの中で語りました。

違法米国が主導する「国際連合」は村の中で最も最近だったシリア、中に犯罪を続けていることを指摘... ..テロリスト集団を除いて、シリアの連立政権の違法対象のすべて、およびシリアに対するこの提携の特使の報告犯罪を無視して驚い:Jaafariは、と言いましたSousseとBubradan Brif Deir al-Zourとなり、62人の市民が死亡した。

彼はアルJaafariを言った:私たちは指がアレッポの街で罪のない民間人を標的にテロ集団に向かって移動しなかったイドリブの状況にいくつかの国は、ミサイルの数十が殉教し、負傷数十につながっ驚い鼻水です。

Jaafariは、シリアはIdlibがテロリストのために新しい洞窟に変わることを許さないと強調した。

Jaafariは、シリアは、法律の力ではなく、電力の傲慢に基づいており、米国およびその内政不干渉の原則の主権を尊重している国連の役割、と考えていると述べました。

。Jaafariは、私たちは、被害者と人を殺すと組み込みAltanah..oodhavを破壊するために標的にされたこのテロ戦争の最後のあるシリアの状態が危機を終わらせるためにAlomutirであることを強調した:現在の憲法を議論する委員会の設置は、シリアの社会を表し、彼らの願望を満たす危機のうち一つの方法です。

ジャアファリ氏は、シリア政府、シリア人、シリア人、そしてテロリズムのない世界を築こうとするすべての人々を達成するため、あらゆる積極的な努力をすると述べた。

彼はシリアのアル・Jaafariイドリブの一部が...シリア状態格闘テロがテロの子供たちを取り除くとすることによって、その主権を拡張するのが自然であることを強調しました

 

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過激派武装勢力、アレッポへの攻撃を続ける

2018年10月27日 | シリア

過激派武装勢力、アレッポへの攻撃を続ける

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過激派武装勢力、アレッポへの攻撃を続ける

説明的なイメージ

10月26日、未知の武装勢力が、ロシアとトルコの武装解除合意の明確な違反で、アレッポ市北部のアル・ニル地区の民間建物にいくつかの即興ロケット弾薬(IRAM)を打ち上げたシリアアラブ通信社(SANA)。

アレッポにあるSANAの記者は、「この攻撃の結果、女性1人が負傷し、重大な被害をもたらした」と述べた。

別の違反で、「ワリドー・アル・ムミニン」作戦室は、その狙撃兵が、アレッポの北部にあるアル・ザハラ地区のシリアアラブ軍(SAA)の2人の兵士を標的にしたと発表した。今月初めに結成された手術室には、アルカイダ関連のHoras al-Dinなど、いくつかの過激派グループが含まれています。

トルコ軍は、すべての重武器がアレッポ周辺の武装勢力の武装地帯を覆う非武装地帯から撤収されたと主張したしかし、武装勢力はまだそこからロケットを発射している。

SAAとその同盟国は、アレッポの北西部の武装勢力を砲撃することで、今後数時間以内にこれらの新しい違反に対応するだろう。

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シリアの野党は、和平交渉の前に憲法委員会を設置すべきだ

2018年10月27日 | シリア

シリア交渉委員会のナスル・ハリリ議長(首相)は、モスクワで開かれた記者会見で、シリアの首脳会談の前に、ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相と会談した。

ハリリ氏は、シリアのバシャール・アサド大統領が「シリア人を殺して燃やした人、インフラを破壊した人、病院、学校、大学、道路、空港に参加した人、この人は再建のための資金を受け取る責任があります。

 
 
 

ハリリ氏はまた、10月27日に予定されているシリアの危機について、ロシア、ドイツ、フランス、トルコの指導者らの協議について楽観的姿勢を表明した。

ハリリ氏は、「4国家首脳がシリア問題の解決に貢献することができる」と述べた。

テイピック・エルドガントルコ大統領は、フランスの大統領エマニュエル・メクロン、アンゲルバ・メルケル首相、ウラジミールプーチン大統領と会談する。

 
 
シリアの野党は、和平交渉の前に憲法委員会を設置すべきだ(ビデオ)
 
 
 
 
また、  YPGは9月にトルコ軍11人、FSA反乱軍63人が殺害されたと主張している
 
 
 
インターナショナルニュースデスクは、世界中の問題や出来事について報告しています。
    
 

イラン海軍、ペルシャ湾岸の米軍艦の牽引

2018年10月27日 | シリア

ベイルート、レバノン(1:00 AM) - イランの海上ボートの多くが、ペルシャ湾湾岸を航海中の米軍艦を襲ったとワシントンポスト紙が報じた

ワシントン・ポスト紙によると、イランのイスラム革命警備隊(IRGC)に所属する2隻の攻撃艇が、金曜日にUSSエセックスの300ヤード以内に到着し、両当事者の間の短い対立を促した。

 
 

また、USSのエセックスは、中東の米軍の指揮官であったJoseph Votel将軍だった。しかし、IRGCボートがこれを知っていたかどうかは不明である。

IRGCの攻撃船はUSSエセックスを数分間追跡してから、米軍艦を後退させる。

現時点では、USSエセックスはペルシャ湾岸および中東地域に配備されている最大の米軍艦です。

 
 
 
また、  米国を傷つける可能性があるため、サウジアラビアへの武器販売を停止することをトランプは廃止する
 
 
 
準東 アジアと経済を専門とする編集長
 
 

イスラエル占領軍は、ガザ地区東部の抵抗ポイントを砲撃した

2018年10月27日 | シリア

イスラエル占領軍は、ガザ地区東部の抵抗ポイントを砲撃した


(`・ω・´)イスラエルは地獄に落ちろ



2018年10月26日。06:12エルサレム時。1時間前

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Bureij - Safa

金曜日の夜、イスラエルの占領軍は、ガザ地区東部のパレスチナの抵抗を傷つけた。

怪我せずに、その破壊につながったミサイルを、発表Bureijの東を監視するためにヘリコプターをターゲットにすることによって、「説明」の特派員によります。

イスラエルの占領軍は、ガザ市の東側とガザ地区北部のジャバリア町の東にある他の観測点を標的にしていたが、怪我は報告されなかった。

保健省は本日理由と題する31 Paljmah Khrjoが戻って行進の活動に参加して包囲を破るためにガザ地区における市民の何千もの職業の抑制の5人の民間人や負傷数十人の死を発表しました「ガザは不動で、ひざまずくないだろうが。」

行進は、12年以上継続し、リターンの右とガザのイスラエルの封鎖の解除を求めて毎週市民の何千もの参加を得て、戻って開始し、ガザ地区の3月30日東部地域の包囲を破ります。

イスラエル占領軍は200人以上の民間人を殺し、22000人以上が負傷した。