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「そのとき、あなたは心の中で言おう。『だれが私に、この者たちを生んでくれたのだろう。私は子に死なれた女、うまずめ、亡命のさすらい者であったのに。だれがこの者たちを育てたのだろう。見よ。私は、ただひとり、残されていたのに、この者たちはどこから来たのだろう。』
神である主はこう仰せられる。『見よ。わたしは国々に向かって手を上げ、わたしの旗を国々の民に向かって揚げる。彼らは、あなたの息子たちをふところに抱いて来、あなたの娘たちは肩に負われて来る。
王たちはあなたの世話をする者となり、王妃たちはあなたのうばとなる。彼らは顔を地につけて、あなたを伏し拝み、あなたの足のちりをなめる。あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。』
奪われた物を勇士から取り戻せようか。罪のないとりこたちを助け出せようか。
まことに、主はこう仰せられる。『勇士のとりこは取り戻され、横暴な者に奪われた物も奪い返される。あなたの争う者とわたしは争い、あなたの子らをこのわたしが救う。
わたしは、あなたをしいたげる者に、彼ら自身の肉を食らわせる。彼らは甘いぶどう酒に酔うように、自分自身の血に酔う。
すべての者が、わたしが主、あなたの救い主、あなたの贖い主、ヤコブの力強き者であることを知る。』」(イザヤ49章)
圧倒するみことばの前に鳥肌が立つ時、いったい私となんの関わりがあろうかとさえ思えることがある。
しかし聖書のことばは、すべての人の「私」に語られている。それが約束。
この世を取り巻く現実に居続けないで、みことばに安息しよう。
私は、「良くなりたい」と叫ぶ信仰さえもないことに、このようなみことばに出会うと気づくけれど、主の方から近づいて下さってこう言われる。「シロアムの池に行って洗いなさい。」
シロアムに向かって歩こう。それだけでよい・・
「 私を義とする方が近くにおられる。」アーメン