主はモーセにこう告げられた。
「あなたはイスラエルの子らに言え。イスラエルの子ら、あるいはイスラエルに寄留している者のうちで、自分の子どもを取ってモレクに与える者は、だれであれ必ず殺されなければならない。民衆がその者を石で打ち殺さなければならない。(1~2)
すべての人は創造主なる神が、母の胎で形造られた人であり、みな神の作品である。神は人をご自分の似姿に造られるほどに愛された。
すべての動物は神の一言で地に現れたが、人には神の霊が吹き込まれた特別な存在であり、それは神と共に生きるように造られたのである。
あなたこそ私の内臓を造り母の胎の内で私を組み立てられた方です。(詩篇139:13)
どれほど人と猿が生物学的に似ていようとも、霊的な存在においては似て非なるものである。神は人の救いに御子をたまわったが、猿のためではない。それゆえに人は神を求めて渇くが、霊を持たない猿は神を求めて渇くことは無い。
神は愛のゆえに、罪を犯して堕落した後も永遠を共にするために、御許に取り戻そうと、あがないのキリストを地にたまわった。
それほどに愛する子どもたちを、おぞましい偶像に捧げて焼き殺すなどという行為を、主はどれほどの怒りをもってご覧になったことだろう。それはまったく造り主の名を汚し、愛を裏切る行為なのである。
わたしはその人に敵対してわたしの顔を向け、彼をその民の間から断ち切る。彼がモレクに自分の子どもを与え、そのためわたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を汚したからである。(3)
主のものである自他を偶像に捧げる行為は、造り主の神の御名を汚すことである。それは神のご性質とはあまりにもかけ離れた仕業である。神は御子の命をさえ惜しまれないほどに、神のかたちの永遠を共にしようとしておられる。
もしも、人がモレクに自分の子どもを与えるときに、民衆がそれを見て見ぬふりをし、彼を殺さないことがあれば、
わたし自身が彼とその家族に顔を向け、彼と、彼に倣いモレクを慕って淫行を行う淫らな者をみな、その民の間から断ち切る。(4~5)
子を捧げる偶像礼拝は、決して民の中に存在してはならないことであり、主はその者を永遠に取り除かれる。その行為を見逃すことも許せないことである。
人は刺激的なことに煽られる愚かさを持っている。多大な犠牲によって、より偉大なものを獲得しようとする悪魔の取引が、信仰という中に持ち込まれることがある。しかし造り主なる神はそれを嫌悪される。
その罪は民の手で裁くようにと命じられた。それがどれほどの罪であるかを、石を投げて死に至らせるという、投げる者にも、投げられる者にも苦痛を覚える行為によって、罪の重さをよくよく弁えさせるためである。
霊媒や口寄せのところに赴き、彼らを慕って淫行を行う者があれば、わたしはその人に敵対してわたしの顔を向け、彼をその民の間から断ち切る。
あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしがあなたがたの神、主であるからだ。(6~7)
人の聖さは主に信頼して安息していることにある。主から迷い出て創造主なる神以外のものに信頼することは、創造主以外のものに身を委ねることであり、それは姦淫である。それは、これほどまでに愛する造り主を侮辱する行為である。
あなたがたはわたしの掟を守り、それを行わなければならない。わたしはあなたがたを聖なる者とする主である。(8)
私たちを聖とするために、神は愛する御子のキリストを遣わして、驚くばかりの犠牲を払ってくださった。その事実はわかりやすく人の歴史に刻まれてあり、誰も否定できないことである。
これほど主に愛されている人が、神を愛するために与えられた自由をもって、偶像に身を捧げ、ゲヘナの永遠の滅びに引き込まれることに、神の怒りと悲しみがどれほどであるかは、察するにあまりあることである。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)