石ころ

見えるしるし見えないしるし(ヨハネの福音書4章)

 

さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。
イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。(43~44)

 

故郷の人々は誰よりもイエスを良く知っていた。大工の子だけれど、実は結婚前に宿していた子。有名になっても御わざを目にしても、私たちの方が本当のことを知っている。
サタンは刷り込まれた肉の記憶をフルに利用して御わざを攪乱するから、新しく生まれなければキリストに留まることない。

 

たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」(ヨハネ10:38)

 

御わざを信じるには霊の目が開かれることが必要であり、それは聖霊の働きに拠ることである。その時すべての良きことは神から発していることを悟り、神によって成ることを覚え、神の栄光に至る望みを得る。そうして、変わらぬ感謝と、世には無い平安をたまわるのである。

 

それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。(45)

 

彼らの歓迎は御わざを見るためであり、見世物小屋を喜ぶのと同じ程度のものである。そこにはキリストを求める霊の飢え渇きは無かった。
どれほどの人が集まっても群衆がキリストを知ることは無い。キリストを知るのは日々の個人的な霊の交わりから始まることである。

 

イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。
この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。(46~47)

 

イエスの御わざは、相手が王であろうと役人であろうと、女であろうと異邦人であろうと、ただ憐みによることである。癒やしに少し回り道をさせることがあっても、時をかけられることはあっても、癒やされなかった人の記事は一つもない。

 

肉のからだは幾度癒やされても必ず死に至る。それは、この世の時間が少し伸ばされ、あるいは不自由から少しの間解放されるだけである。
たまわった時を用いて永遠のいのちの備えをするためであり、愛する人に主のお憐みを伝えて共に永遠のいのちに至るためである。

 

イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」(48)

 

サマリヤでイエスが成された御わざは、霊の渇きに対する回復であって目に見えるものではなかった。
ヨハネが4章の多くを割いて語っているのは、いのちを生かすものは見えるものには拠らず、目には見えない霊の渇きが癒やされることにあり、みこころに叶う彼女の願いによって恵みがサマリヤの人々にまで及んだことである。

 

イエスはサマリヤで目に見える奇跡やわざは何もなさらなかったが、みことばを持って霊、魂の渇く者に来てくださり、主を知るための交わりを与え、からだには罪からの解放とみこころを生きる力を与えてくださった。

 

王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」
イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。(49~50)

 

「子供が死なないうちに・・、」すべてのことに時を委ねていないのは、主に信頼していないからである。しかし此処にも主の愛と憐みはある。
みことばを語って癒やし、関係を育てて「あなたの信仰」と言ってくださるのである。

 

「信仰によって救われる」とあるが、主の一方的な憐みに拠ることである。人に信仰が無いことは主がよくよくご存じである。
彼がみことばを聴いて信じたことも、主に触れられた者にたまわる恵みである。それゆえ、主に近づく者が自分の信仰を心配する必要はないのだ。

 

すべての問題を抱えたままでキリストのうちに移されることこそ完全であり、命に関することを求めても主ご自身を求めないなら、何度癒やされてもいのちを得ることはなく空しいことである。

 

彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。
子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。
父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。(51~53)

 

家族すべての救いとなったことは主の良きご計画から出たことであり、みことばの「しるしと不思議を見た」ことで信じた結果である。

 

憐みによる御わざは祈りや思いに応えてくださって必要を満たし、本人も気づかぬ危機から救い出し、執り成されて敵の中に居るときも平和をたまわる。
働いてくださった主を、すべての出来事の中で見つけて感謝に至るのは、永遠までの変わらぬ関係に在るからである。

 

イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。(54)

 

ガリラヤでは他に御わざはなさらずみことばもなかった。教会であっても、家庭あっても、肉によってキリストを知っていると言う所に霊である神の出番は無い。


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