バッハと音楽についての道草日記

~気になる音楽、ドラマ、書籍、雑誌等についての雑記帳~

クレメールの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ

2005-12-22 19:00:10 | 音楽
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 ギドン・クレメールの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ(全曲)が2005年10月5日にユニバーサルミュージックから発売されている(UCCE-9068/9)。この曲は、バッハが1720年(35歳)にケーテンの宮廷楽長に就任したときに作曲されたと考えられています。

ギドン・クレメールは解説書(藤井孝一:訳)の中で次のように述べています。

『紙の上にインクで書かれた黒い点や筆使いは永遠にそこに留まっている。その一方で、創造者のものであろうと、下僕のものであろうと、時は流れる。我々が生きるインターネット時代より遥か昔には、こうした小さな記号は何ギガバイトもの情報を伝えたものであった。しかも、今日我々がダウンロードできるようなものと違って、常に精神的価値に満ちていたのであった。我々がそれらに問いかける度、何かを伝え続けているのであり、同時に我々皆に対しても問いかけ続けるのである。』
この演奏を聞くと、冷え切った肌を刺すような寒い、広い、しかもコンクリート打ちっぱなしのような殺風景な部屋の中で、孤高の世捨て人のような芸術家が、ひたすらバッハに畏敬の念を払いながら、また同時にバッハの家庭的な温かい人柄を想いながら、修行僧のように、ひたすら音符と格闘している姿が頭に浮かびます。今までの演奏家が、この曲をロマンティックに、あるいは力強く、ある意味で恣意的に作為的に演奏しているように感じるのに対して、クレメールはこの曲の持つ普遍的な、時代を超越する永遠の美しさを神々に捧げるように、敬虔で、崇高で、張り詰めるような緊張感を持って演奏している。                                                                         
クレメールは解説書のなかで、バッハの永遠の価値を表現する優れた演奏家として、カザルス、グールド、またヴァイオリニストとしては、エネスコ、ミルシテイン、メニューイン、シゲティらの名前を挙げている。クレメールの演奏は、彼らの演奏に匹敵するのではないだろうか。


フリッツ・ヴェルナーのバッハ受難曲

2005-12-12 22:40:10 | 音楽
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2004年11月にフリッツ・ヴェルナー指揮の教会カンタータと受難曲のCDセットがワーナーミュージック・ジャパンから発売されています(WPCS-11801/10)。3巻のボックスからなっており、第1巻、第2巻が教会カンタータ、第3巻が受難曲、クリスマスオラトリオ、ミサ曲ロ短調、モテット他になっています。以前から気になり欲しかったのですが、値段が高いので様子をみていたところ、最近、あるCD屋さんで第1,2巻が売れてしまい、第3巻しか残っておらず、思い切ってこれを買ってみました。フリッツ・ヴェルナーという名前も聞いたことが無く、1958~1968年の録音で、恐る恐る予備知識がないままCDを聞いてみました。最初は音も悪いし、歴史的価値以外に聞く価値はないのかな、と思ったのが第一印象でした。しかし、じっくり聞いてみると声楽のソロの部分はなかなか良く、全体的にテンポは遅いのですが、抒情的な感じで良いです。
CD解説者のニコラス・アンダーソン氏(訳:浅野尚行氏)によれば、バッハの教会カンタータの録音が活発になってきたのは、1950年代になってからで、最初にカンタータ録音の集成をつくろうとしたのは、トーマスカントルのギュンター・ラミンで、1950年に着手して1956年に亡くなるまでドイツ放送局で録音している。その後、ドイツのカントル兼指揮者達が録音したが、量的には十分なものではなかったようである。その後、1960年代から1970年代にかけて、バッハ・カンタータ録音の2大プロジェクトが行われ、一つがミュンヘンのカール・リヒターで、もう一つが今回のCDの指揮者であるシュツットガルト近郊ハイルブロンのフリッツ・ヴェルナーの録音である。ヴェルナーのハイルブロン・ハインリッヒ・シュッツ合唱団は今日の水準から見ればかなり大規模であり、アンサンブルの完璧さや声楽的な一体感に関しては、ライバルだったリヒターのミュンヘン・バッハ合唱団に及ばなかったこともあったようですが、その弱点をすばらしい当代最高のソロ歌手と器楽奏者達が十二分に埋め合わせている。ヴェルナーが起用したソロ歌手は大半がドイツ語圏出身者であったが、器楽奏者はフランスとドイツの連合軍だったようです。
  現代のバッハ演奏は、オリジナル楽器の使用し、歴史的な研究に基づいた演奏方法で行うのが通例となっており、ヴェルナーらを初めとする先駆者達のバッハ演奏は時代遅れと考えられているが、かえってそこに魅力を感じる場合も多い。解説者はヴェルナーの録音を”作為や過剰な自意識を排した自由で新鮮な表現に到達している”、”舞曲に対して作為を感じさせない自然なリズム感を持っている”と表現しています。