バッハと音楽についての道草日記

~気になる音楽、ドラマ、書籍、雑誌等についての雑記帳~

バッハの息子たち(その3)

2007-03-15 21:42:47 | インポート

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ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの肖像①(?)

この写真はBRILLIANT(99785/6)のCDジャケットの表紙です。解説書には出典の記載が無く、フリーデマンの肖像かどうかはっきりしませんが、下の彼の肖像画③や⑤と少し似ているので、フリーデマンではないかと勝手に想像しています。この肖像画の出典がわかる方がいらしたら教えて下さ~い。

      


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ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの肖像②

従兄弟のゴットリープ・フリ-デマン・バッハの作と考えられる水彩画です。(出典:春秋社「ヨハン・セバスティアン・バッハ-学識ある音楽家-」クリストフ・ヴォルフ著、秋元里予訳)   

   

                                                           

             

_scan10166_1 ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの肖像③

(出典:新潮文庫「バッハ」樋口隆一著)  

                                                                          

                                                

                  

                             

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ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの肖像④

(出典:講談社現代新書「J・S・バッハ」礒山雅著)  

                                          

                                         

     

                                       

                                     

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ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの肖像⑤

(デッサン、作者不明、バッハ・ハウス、アイゼナハ)

(出典:創元社「バッハ」ポール・デュ=ブーシェ著、樋口隆一訳)  

                                   

                                                  

以上の色々な肖像画がいつ、どこで、誰が書いたのか、また彼が何歳頃なのかは書物に記載が無く不明です。私の印象では肖像画が④→②→③→⑤→①の順に年を取っていっているのかと想像しています。イメージ的には兄弟の中では一番かっこいいようにも思います。

ウイルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710-84)は、セバスチャン(父親)とマリア・バルバラとの間に生まれた長男で、バッハが25歳の時の子供です。バッハは彼に大変な期待をかけたようで、熱心に教育をしています。1720-24年に彼のために「ウイルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集」を書いています。

彼の曲を確かにいい曲(?いい表現が見つかりません....)ですが、パッと聞いただけですが、エマニエル程の魅力が感じられません。礒山氏は、講談社現代新書「J・S・バッハ」の中で、彼の曲を「表現の欲求そのものは豊かである。なかなか情熱的だし、聴き手の意表を突く進行も、随所に出てくる。だが、それを統一する意思が、いかにも弱い。このため、音楽にシンが欠けてまとまらず、本当の意味での個性が感じられないのである。」と記載しています。うーん、そういう感じもします.....。


バッハの息子たち(その2)

2007-03-04 00:34:22 | 音楽

カール・フィリップ・エマニエル・バッハの肖像①

(版画:パリ国立図書館)(創元社出版、ポール・デュ=ブーシェ著(樋口隆一監修)の「バッハ」から引用)

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カール・フィリップ・エマニエル・バッハの肖像②

(講談社現代新書出版、礒山雅氏著の「J・S・バッハ」から引用)

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バッハの息子たちで最も有名なのは次男のカール・フィリップ・エマニエル・バッハです。1714年3月8日にワイマールで生まれ、バッハ一家がバッハの最終就職地であるライプチッヒに移住したあと、聖トーマス教会付属学校で第4学級から第1学級(1730年)まで学び、その翌年からライプチッヒとフランクフルト・アン・デル・オーデル大学で法律の勉強をしたようです。彼は、才能を早くから注目され、20歳の頃には演奏家、教師、作曲家として評判をとり、自分の意思を貫き通す性格だったようです。生存中は他の兄弟の作品よりはるかに多く演奏されたようで、その理由として、ポール・デュ・ブーシェは、①音楽界で重要な地位を占めていたこと、②作品が時代の好みに合っていたため、大衆の支持を勝ち得たこと、を指摘しています。「ベルリンのバッハ」、のちに「ハンブルグのバッハ」として、父親以上の名声を得たようである。音楽史的には多感様式と言われているようです。彼の音楽を聴けば、バロック音楽とウイーン古典派音楽とを結ぶ過渡期の音楽家であることがすぐに理解できると述べていますが、確かに素人の私でも実感できます。

(続く)